攝津幸彦①
執筆者:関悦史・筑紫磐井・北村 虻曳・堺谷真人・北川美美・堀本吟
はじめに
攝津幸彦(1947~96)がなくなってからもう15年経つ。昨今話題となっているゼロ年代作家たちが登場する前にもう冥界に旅立ってしまった夭折の作家である。しかし、ゼロ年代世代の作品の全てが攝津から始まったと言っても良いような気がする、というと批判を受けるだろうか。
戦後俳句を総決算するような、虚子と前衛俳句を足して2で割ったような、そして俳句が最後に文学で有り続けようとした証拠であった作品を残した作家は、「戦後俳句を読む」に登場してもおかしくなかったが、あまりにもメンバーにちかすぎた故に手を挙げる人がいなかった。
今回、亡くなった10月13日に向けていくつかの鑑賞、論考を集めて掲載することとした。集めてみると1回分に相当する大量な分量になったので「戦後俳句を読む」の1回を使って特集する。読者は、この天才に思いを馳せていただきたい。(筑紫磐井)
関悦史 3編
外科室の雀わけなく蛤に(鹿々集)
秋の季語の「雀蛤となる」、空想上の季語なので、ふだんは慣用句のように自動化した言い回し、単にそういうものとして受け流すだけなのだが、ここに「外科室」が介在することで、何か実際に医学的な施術を受けてスズメがハマグリに変身したような妙な印象が生じている。
さらに曲者なのが「わけなく」で、この語によって、まともに考えれば物理的には到底不可能なはずの、異生物への改造手術という難事があっさり実現されてしまっているように見える。スズメの体内のひとつひとつの器官や細胞、臓器や骨格が内側からCGのように軽やかに分解されては瞬時に新たな組成を生み出し、ハマグリに変貌していくさまを思わせ、静かで軽やかでありながら同時にグロテスク。
「外科室」で一旦物質化された「雀/蛤」が「わけなく」であっさりと再度非物質へと戻される往還運動により、言語という抽象物のなか以外ではなし得ぬ、言語のなかでのみあらわにされ得る生命現象の無気味さというものを見せられた思いがする。
そこでもう一度「雀蛤となる」が単に秋の季語であるという地点にまで立ち戻れば、この句において視覚的に残るものは、あっさりと秋を迎えてしまった空漠たる外科室のみとなる。スズメもハマグリも無論いない。
いのちとは、言語のなかでの扱われかた、分節のされかたひとつで現われたり消えたり、見えたり見えなかったりする、認識と意識の内外を自在に跨ぎ超えてしまう、つかみどころのない現象なのであろうかという不可思議の感も湧く。
かたつむり常の身を出す空家かな(四五一句)
普通に読めば「空家」から「かたつむり」が出てきていると、ただそれだけのことに見えるが、「常の身」の「常の」とは一体何か。
わざわざこう断わられると、「常ならぬ身」を「かたつむり」が出す潜在性というものも考えられ、空家というものが持っている、懐かしくも「常ならぬ」想像を喚起させる詩的な力、その化身として「かたつむり」が「常の身」をのぞかせているような具合にもなってくる。
あるいはこの「空家」は人家のことではなく、「かたつむり」の殻のことかもしれない。
「かたつむり」が「常の身」を外に出している間、殻のなかには「かたつむり」の身はないので、それを「空家」と呼べば呼べる。
しかし殻といえども身と分離することが不可能な「かたつむり」の身体の一部ではあるのであり、そう考えるとこの「空家」は、つねに「かたつむり」にまといつき、その一部をなす、死の影のごとき空虚ともとれる。それは「かたつむり」に限らない全ての生命体が持っているものだ。「常の身」を出すことができるというのは必ずしも恒常的にいつまでも続きうる事態ではなく、その期間は限られている。それでこの「かたつむり」は誰かといえば、いつの間にか読み手であるあなたであり、私になっている。あとには「空家」ばかりが残る。
御子様ランチ白き夏野の中にあり(四五一句)
高屋窓秋の《頭の中で白い夏野となつている》は、意識そのものが空白にまで近づく、或る極限的な失語と茫然のなかに現われた自然のイメージを掬っているが、この句ではそこに「御子様ランチ」が置かれている。
失語と茫然のなかに不意に幼年期の記憶や郷愁が介入したというべきか、むしろ失語状態が郷愁へと心を導く通路として用いられているというべきか。
不意に介入した要素がもうひとつある。色である。ざらついたモノクロームの映像を思わせる「白き夏野」に対し、「御子様ランチ」のカラフルさが介入しているはずなのだが、しかしそれらは一句のなかでは曖昧に馴染みあっているようで、一句全体がとりむすぶ映像としては色があるともないとも見定めがたい。その各部の明晰さと全体の曖昧さの矛盾と両立が、一句を夢の時空に似たものへと仕立てあげている。
俳句の本源 筑紫磐井
攝津幸彦が亡くなって15年もすると、攝津が亡くなっていたときにおかれていた環境とずいぶん違った環境が今は生まれているように思う。攝津を愛し、また攝津も愛した、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、桂信子、永田耕衣と言った先達もなくなった。攝津が意識せざるを得なかった、飯田龍太、森澄雄といった対極の人たちもいなくなった。一方攝津が想像だにしていなかった、俳句甲子園世代や、芝不器男賞世代が次第に登場してきている。三橋敏雄や飯田龍太の対比で読まれて意味を持つ作品群が、新しい世代の中でどういう意味を持つか、興味深く眺めている。
というのも最近、虚子について話し合いをしたときに、
浅草になく鎌倉で買う走馬燈 高濱虚子
という句が取り上げられた。この句は、詠んだ虚子の意図を離れて、これが俳句というものだと現代の若い作家には受け取られているのではないかと議論がされたからである。もちろん詠んだ虚子の意図などは決して分からないのだが、三〇年程前にこの句に出会って否定的に見ていた我々とは違う評価が現代の若い作家の間では生まれているのではなかろうかという気がする。もっとつきつめて言えば、誰も真似などしなかった「走馬燈」型の俳句が現代の若手の作品に現れているような気がすると言うことであった。
虚子の句の是非を問うわけではないので、あまりこの句について立ち入ることはしないが、攝津の句もこうした理解から、新しい解釈やとんでもない解釈が生まれているような気もする。
蝉しぐれもはや戦前かも知れぬ 攝津幸彦
この句は、知らぬ間に戦前が来ているかも知れぬと言う、フラッシュバックしているような現代の逆コースを詠んだものと理解していた。しかし時間を逆転すれば、常に時代は逆行するという恐怖をや不安は普遍的な感情かも知れない。この夏、全国の高校生が競い合う俳句甲子園の審査委員として招かれていったが、今年の最優秀作品に選ばれたのは、神奈川県立厚木東高校の次の句であった。
未来もう来ているのかも蝸牛 菅千華子
審査員を代表して高柳克弘が未来のすべてが出きってしまっているかもしれないという思いを詠んだと解説していたが、戦前が現代に到来するのと逆方向に時間の流れが移動して、未来が現代に到来すると見られなくもない。私は入賞決定に当たっては、攝津の句があるなあと若干躊躇したが、他の選者は気にもとめなかった。攝津幸彦自身マイナーであり、この句が知られていなかったせいもあろう。高校生だから盗作のおそれもないしそれほどとがめることではないかも知れない。むしろ気になったのは、尖鋭的と思われた攝津の発想が、現代の高校生の意識の中で自然に発生してきてしまうことだ。習わないでも生まれる言語感覚は、俳句の本源的な本質といえるであろうか。
攝津幸彦を読む 北村虻曳
攝津幸彦の作品から立ちのぼってくるものは肯定性である。彼に対するインタビューや「豈」同人に伝わる気風から察してもそれを感じる。ここで言う肯定性、極めつけはジョージ秋山(「ビッグコミックオリジナル」)の名作『浮浪雲(はぐれ雲)』の主人公「雲」の性格である。日常を楽しく受け取ると言うことである。攝津の場合、自分の病を自覚してからも、そのことの作品への反映は極小であるのはその現れだ。また、悲壮な長男ではなく、皆に受けとめられているという「末っ子長男」的心性もあるだろう。
一方で
幾千代も散るは美し明日は三越 『鳥子』幻景
川に落ち山に滑りて戦地とす
襟立ててハルピン破れて異国かな
に前後する一連のように戦争をネガティヴに描く作品も多いが、批判と言うよりもノスタルジーが主眼である。むろん、ネガティヴであるから、七五三のポスターに見るような空疎な古き良き日本肯定とはかけ離れている。むしろ攝津の学生時代は、「革命的な、あまりに革命的な(絓秀実)」時代であり、あらゆる権威は笑うべきものであった。したがって、詩客『戦後俳句史を読む・第7回』で堀本が挙げているように、初期は5・7・5型式でなにができるかを試している。後期においても、
文禄元年春以下百字読めずに候 『四五一句』
など、穏健ながら詩形の短さの無責任にも居直ればよいという発見である。
しかし彼は、観察家や分析家ではなかった。写生とはおよそ異なる方向に向かう。山口誓子のような対極的存在を思い浮かべるとよい。発見を言葉で正確に表現するよりも、ことばを風に流しもっとも豊かと感覚される瞬間を定着するという詠み方である。したがって彼の作品は無意識の方向にふくらみエロスをはらむ。
踊り子の曲がりて開く彼岸かな 『與野情話』
ばれているのか。しかしそんな読みでいいのか。この句にはもっと遠くが見えるではないか。この種の惑わしは彼の常套手段である。
豊かさとは世に言う豊かさではなくて、言葉の組みあわせの機微・文目が多くの妄想をかき立てると言うことである。
南浦和のダリアを仮のあはれとす 『鳥子』
殺めては拭きとる京の秋の暮れ 『鳥屋』
湯畑の小屋をとんぼが押している 『鹿々集』
解析しても理解が進むわけではない。感得すべきものである。しかし彼の基調音は、反権威性と手を取り合ったおおらかな肯定性にあると言えるだろう。
(作品は『攝津幸彦選集』(邑書林2006年)によった。)
Haiku from the Ruins~攝津幸彦小論~ 堺谷真人
1945年6月9日、土曜日、午前08時30分。米軍第58爆撃団所属のB-29戦略爆撃機40余機が兵庫県武庫郡鳴尾村に来襲した。任務番号第191号。目標は川西航空機鳴尾製作所。大日本帝国海軍の二式飛行艇や紫電、紫電改などの戦闘機を製造した軍需工場である。
目標上空の天候は曇り。使用されたのはAN-M65 1000ポンド通常弾。高度2万フィートからの精密爆撃は約30分間続き、投下弾トン数は263.5トンに達した。任務終了後の航空写真では、工場総屋根面積の69%に破壊乃至損傷が見られ、施設の26%は修復不能と推定された。
2ヵ月後の8月6日、月曜日。米軍第73、第314爆撃団に所属する250余機が阪神間に来襲した。いわゆる「阪神大空襲」である。任務番号314号。目標は西宮から御影にかけての都市部。作戦任務報告書の「目標の重要性」には、この地域が大阪と神戸の大企業に部品を供給する下請中小工場地帯であることが記載されている。写真偵察では市街地の32%の破壊が確認された。西宮に隣接する鳴尾村も罹災。爆弾、焼夷弾の大量投下により村域の大半が灰燼に帰した。
◆ ◆ ◆
攝津幸彦は1947年1月28日に兵庫県養父郡八鹿町に生まれた。2歳のとき鳴尾に移り住み、以後、10余年をこの地で過ごした。筑紫磐井が『攝津幸彦選集』(2006年・邑書林)に寄せた文章「語録・文章・俳句から」には、幸彦自身による鳴尾時代の回想が見える。
戦争が終わって十年にもなるのに海へ続く運河沿いの飛行機工場の後は黒く焼け焦げた瓦礫の山でコンクリート片からニョキニョキと鉄筋がむきだしに伸びていた。あちこちに水溜りがあってその水は廃墟に似つかわしくなくいつも透き通っていて目高が泳いだりしていた。運河の堤防へ続く土手は春には蓬草が一面を覆い秋ともなると堤防の上から黄金の麦畑が一望できた。
(「中烏健二句集<愛のフランケンシュタイン>の思い出」より)
幸彦に直接の空襲体験はない。が、空襲が残した廃墟こそ彼の遊び場だったのである。焼けただれた瓦礫、銹びた鉄筋、そして爆撃であいた大穴の水溜り。あたりを掘り返せば、高温で溶融した金属やガラスの破片が容易に見つかったことであろう。
戦争体験者と非体験者。両者にとって同じ廃墟が異なる風景を見せることは想像に難くない。敵の猛攻で完膚なきまで破壊された軍用機工場の廃墟であれば尚更である。鳴尾製作所の跡地に立つとき、戦中派は否応なく戦争の記憶と向かい合わざるを得ない。一方、戦後生まれの少年にとって、そこは物心ついた頃からの生活圏の一部であり、日常生活の先験的与件に過ぎなかった。赤茶けた焦土の中から重厚な歯車やボルトを見つけた少年は、よしんばその造型や質感に即物的な興味を示すことはあっても、それらが本来持っていた意味、あるいは意味の喪失について思いをめぐらすことは稀であったかもしれない。
◆ ◆ ◆
ところで、代表作「皇国前衛歌」について、雑誌「太陽」のインタビューに応じ幸彦は次のような発言を残している。小学校三年ぐらいの頃、母親の実家にあった昔のSP盤を電気蓄音機でよく聞いていた。それがほとんど軍歌だったため、「露営の歌」などの歌詞を意味も分からずある種のムードとともに丸暗記してしまった、云々。軍国主義や戦意高揚といった歴史的文脈とは無縁のところで幸彦が「皇国的語彙」に馴れ親しんでいった経緯がよく分かる。
皇国(みくに)且つ柱時計に真昼来ぬ
送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)
若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)
満蒙や死とかけ解けぬ春の雪
幾千代も散るは美し明日は三越
南国に死して御恩のみなみかぜ
皇国、万歳、八紘、満蒙、散るは美し、御恩・・・。これらいわば「皇国的語彙」に対して多くの日本人は戦後長く気まずい思いをしてきた。それらは戦前・戦中の軍国主義の記憶とあまりにも強く結びついているが故に否定すべき過去の遺物とされる一方、一部の戦中派にとっては根強い郷愁を呼び起こす特別な言葉であり、更に同一個人の中で否定・肯定どちらとも見定めがたい両義性を持つことさえあったからである。
いずれにせよ、「皇国的語彙」はその濃厚すぎる歴史性・意味性のために、俳句の構成要素としては取り扱いにくい言葉であった。意味の牡蠣殻が厚く付着して詩語としての働きを阻害する惧れもあった。にもかかわらず、あの三島由紀夫が自決してから僅か5年後のタイミングで、幸彦は「皇国的語彙」を実にぬけぬけと苦もなく操ってみせたのである。あたかも練達の手品師のような手ぶりで。
◆ ◆ ◆
廃墟に残る歯車やボルトの重さや手触りに対する即物的関心。熱による変形・変色さえも古陶の耀変のごとく賞玩してやまない孤独な偏愛。「皇国前衛歌」の作者・攝津幸彦が、大文字で書かれた歴史の意味性から遠い場所で「皇国的語彙」に対して持っていた距離感もしくは距離感のなさは、ひょっとするとそのような廃墟あそびの原体験に根ざしていたのではないだろうか。
向日葵や瓦礫いつともなく消えて 『陸々集』
(2011年9月11日 脱稿)
幸彦と前衛 北川美美
「前衛」という言葉に激しさがある。躍動するエネルギー、それまでの流れを変えていこうとするあらゆるものを巻き込む力。幸彦の過ごした60-70年代の青春時代。まさに前衛芸術が盛んだった時代背景がある。時代を変えて行こうとする学生たちの紛争もその背景にある。すべては渦のようだった。
前衛美術、前衛映画、前衛写真、前衛音楽、前衛小説…前衛芸術とは、「運動」というにふさわしい、あらゆる分野を巻き込んでいく力強いエネルギーだ。わけのわからない、絶叫のような空間に観客あるいは読者を巻き込みながら時間が進行する麻薬性。閉塞の解放、個の開化の実現を目指したのである。その興奮は、幸彦が俳句にのめり込む原動力となった。
木に泊まる四人にひとり紅葉す 幸彦(第一回五十句競作佳作作品)
前衛俳句と言えば、金子兜太、高柳重信がその旗手として挙げられ、さらに加藤郁乎氏の前衛活動もエネルギッシュであった。(*1)
霏々としてあととりはない番外の灰かぐら 加藤郁乎『形而情學』
そして、前衛芸術を語るとき、「実験」という言葉がしばしば付けられる。すでに幸彦の前にあった前衛俳句も「実験」的な仮のものとして映っていたのだろうか。
南浦和のダリヤを仮りのあはれとす 幸彦
前衛俳句について三橋敏雄が語っている。
「(中略)俳句の方は金子兜太とか赤尾兜子、それに高柳重信なんていうのがそっちの方の代表者だけれど、なんとなく否定的に葬られちゃうわけでしょ。どうしてああなっちゃったのかっていう理由をきちんとだれもまだ言っていないんだな。(中略)特にあれはね、六十年安保以降の空気と、どうもどこかで区切りがくっついちゃっているんでね。(中略)やっぱりこれも戦前の新興俳句が反伝統で否定されたように、なにかが働いたような気がしてしょうがないんですよね。(中略)」(恒信風第二号・三橋敏雄インタビュー/1995年)
敏雄のいう、「どうしてああなっちゃったのか」は、おそらく、『現代俳句ハンドブック』の「前衛俳句」(執筆:川名大)の箇所、「昭和36年現代俳句協会から有季定型派が脱退し俳人協会を設立したのを機に俳壇ジャーナリズムから前衛派の退潮があり、前衛派内部の対立も深まった」その辺の原因ということだろうか。先の敏雄のインタビューは重信没後12年経過時の収録である。「運動」としては確かに終息したという見方が強い。一つには俳句は、師系が強いということが前衛を活動として続ける弱点であったと思える。破壊、自由、自己の解放ということがテーマであるのに、師系は邪魔である。
幸彦は、『俳句研究』(昭和48年11月号)の「第一回五十句競作」で鮮やかに登場した。高柳重信の選である。前衛俳句の、その「運動」の終息をすでに察知していたかのように、第二回五十句競作の入選以降は重信の懐へ身を委ねることなく、17音の俳句形式を守りつつ、独自の修練と怠惰を繰り返していることが全句集から伺える。なので、前衛作家としては、適格な判断であったのかと思う。作品には、むしろ、当初より西東三鬼、渡邊白泉、三橋敏雄に直観、そして個々の言葉の深層部に読者を引きずり込むところは、特に敏雄に影響を受けているように思える。
チェルノブイリの無口の人と卵食ふ 幸彦
広島や卵食ふとき口開く 三鬼
物干しに美しき知事垂れてをり 幸彦
ひらひらと大統領がふりきたる 白泉
はつ夏の折角の血の指ふふむ 幸彦
はつなつのひとさしゆびをもちいんか 敏雄
前衛芸術作家(*2)の詩をみてみよう。
オノヨーコの詩。
RIDING PIECE
Ride a coffin car all over the city.
1962 winter* “GRAPEFRUIT” by Yoko Ono
一行の詩が不思議なメッセージとなる。下記の幸彦の句と涅槃という題材こそ似ているが、幸彦句はメッセージ性を封印し幻影であろうとする。言葉のアクロバット的な駆使により読者をあちこちへ飛ばす。マジョリティではなくマイノリティの読者を誘う。生活の翳を引きずっていないところがヨーコと幸彦との共通点である。
一月許可のほとけをのせて紙飛行機 幸彦
そして、かの安部公房は、リルケ、ハイデッカーの傾倒者であり処女詩集『無名詩集』にその失われた青春性をみるようで輝かしい(*3)。「言葉から動く」という印象がある。
安部公房の詩。
<夜だった>
夜だつた
クリームのやうに濡れた
奇妙な風がふいてゐた
部屋の中ではふと天上や壁を
まるで自分の皮膚の延長のやうに
しかし外では
ああ 破風をゆるがし
数々の過ぎ去つた太陽が涙となつて
眼の中に逆流する
そんな風が吹いてゐた
冬はよごれて道端にうづくまり
どこからか春が
まぎれこんでくる
町に出よう
ショーウィンドウの中では
もう人絹の華が咲き出てゐる
影が二つづつ
その中に映つてゐる
ひたひたと風にひたつて
すべての眼が涙をすすり込みながら
唇から早くも散つた赤い花びらが
ほんのちよつぽり煙草のやにを落し込み
ああ 世界が風邪をひいてゐる……三月
[*1949.3頃制作] 安部公房
「クリームのように濡れた風」は、アヴァンギャルドの夜明けを詩に託しているようである。そして夜が過ぎ、朝が来て、昼が来て、鏡に幸彦が映っていた。
階段を濡らして昼が来ていたり 幸彦
*
幸彦は、60年70年代の日本の前衛芸術運動に触発され、渦のような時代のエネルギーを言葉に見つけようとした。前衛芸術運動、ひいては前衛俳句の路地裏から幸彦はヌエ的に出てきたのだ。
路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 幸彦
昭和の終わりとともに激しさよりも穏やかな精神性を求める平成の流れに変わっていく。前衛は運動として衰え、崩れゆく昭和の幻景に身を委ねるしかない。幸彦が現れそうな店に行ってみたい。ふと新宿の路地裏のどこかでレエン・コオト姿の幸彦が背後にいるような気がする。遭ったこともない俳人でありながらどこか懐かしい。
雪の日の戦後に生れて以後も戦後 幸彦
太古よりあゝ背後よりレエン・コオト
*1)加藤郁乎氏の俳句は舞踏とコラボレーションされ「俳句」が前衛芸術という空間で上演された。タイトル:『降霊館死学(1963/出演:土方巽、他/美術:池田満寿夫)』『形而情學(1986)』、いずれも草月ホールで上演。「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)という言葉が生々しい。
*2)日本の前衛集団に「世紀の会」(1950年代)があった。安部公房を中心とし、関根弘、高田雄二、瀬木慎一、勅使河原宏らが参加した(岡本太郎、花田清輝は特別会員)。当時の勅使川原宏の父・蒼風がミッシェル・タピエのアンフォルメル運動に参加し、かつ現代美術のパトロン(サム・フランシス、ジョルジュ・マチウなど)ということもあり活動は草月アート・シアターが拠点となった。武満徹、オノヨーコ、一柳彗、ジョンケージも巻き込み、実験的な前衛芸術が展開された。
*3)番外編:安部公房の詩
「別れ」
涙なく泣きたければ
声もなく笑みたりき
夕暮に
君行く日
白泉の「われは戀ひきみは晩霞を告げわたる」を彷彿させる。白泉1913年生まれ、公房1924年生まれ。かの安部公房も白泉の句に涙しただろうか。
亡きものは亡き姿なり・・団塊世代俳人の逆説的立ち位置・・・ 堀本 吟
1・〈極私〉
攝津幸彦没後十年、それからさらにもう五年経とうとしている。うれしいことに、この間に、生前の各個人句集を集めて、『攝津幸彦全句集』(沖積舎)や『選集』(邑書林)、散文集『俳句幻景』(沖積舎)、夫人の回想集『幸彦幻景』・・。後世が十分学ぶに必要な資料が刊行された。これらの文献をひらくことは「セッツ」と共にもういちど「セッツ」とこの世界をたのしむことでもある。あるいは果ては忘れさられてしまうのかも知れないが、この作家ののこした俳句の幅や深度を反芻すればそうはならないはずである。
しかし、そうはいっても、攝津幸彦とは、じつは型どおりには捉えにくいたいへんな俳人である。彼の俳句には(依然として)とらえ方のわからぬ要素が多々埋蔵されているのである。(すぐれたリーダーや先達とはおうおうにしてそういうものだが)
団塊の世代は、昭和二十年以降つまり第二次世界大戦以後に生まれ、昭和の終焉を見た。戦前に生まれた戦後作家(鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄、安井浩司、阿部完市、加藤郁乎、等を想起してほしい)作家達を父として年の離れて兄として、その背中をみて成熟していった。最近台頭している平成の新人達、昭和という時代を知らないで生まれ育った青年俳人達(いまの『新撰21』の20代〜40代の作家を一応想起してほしい)は弟や息子世代にあたる。攝津幸彦達はそのはざまに活躍した。
春夜汽車姉から先に浮遊せり 攝津幸彦
弟へ恋と
「姉」の句は 『陸々集』(1992・弘栄堂書店 )、「弟」の句は 『鹿々集』は最後の公刊句集である『鹿々集』(1996、ふらんす堂)所収。
等々、なつかしみある句を遺した彼が、前後の世代の人たちと決定的にどこが違うか、ということが私には一つの関心を惹く。(同時代の坪内稔典や江里明彦、夏石番矢等との作風や個性の異同のほうがむしろ言いやすい)。私がここにきた当初には、彼らが昭和後半、二十世紀末の「新人」といわれていたのだが・・・。俳句の流れの中で、その終盤に登場した新しい波、攝津幸彦もその一人であり、現在の平成の新しい波をうむ一つの起点ともなっている。
たしかに戦争を知らない世代のはしりとなった存在であったが、その時代人の特徴と共に、彼にあっては、発想の場所とりわけ個人的なところにある、とみられる。俳句形式を想定して解読してある程度のことが解る多くの俳人にくらべてやはりそうとう蠱惑的な印象をふりまいている理由かも知れない。
摂津の句があまりに高度の技術を駆使しているために、そういう彼の俳句の意味の重層性多義性に惹かれて、同時代のわれわれは、多義性のひとつひとつ根拠を明らかにするようなことをあえて等閑視してきたとも言える。攝津幸彦の特異性をしめす表徴は多くの句にも散見するのであるが、それはあとにおくこととして、私はある散文の一節に目を留めた。そこにはこう述懐されている。
青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病いのように、私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。しかし、いつの頃からか、血が流れる身体をこすりつけるにふさわしい価値あるものが見いだせない状況がやって来ていて、いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いているのであった。
思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造から、なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。
《俳句と極私的現在》一九八一年三月「俳句研究」。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行)
存在と言葉は別次元のものである、と言う命題を認めながら、それでも作品の内容や形式と、一種の絶望感ただよう個人的動機とが不即不離であるということに、あやうく触れてまた離れるている微妙な筆調である。
表現の動機は人さまざまであるが、伝統詩型の場合は、おおむねその様式性を学ぶことに重点が置かれる。俳句などはとくに形式への帰依のほうが強い。それで、上に書かれた「思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、
」という攝津の俳句形式に対する認識は、まさに多くの共通認識でもある。私が十代の少女だった頃、〈思想は一の意匠であるか
〉という萩原朔太郎の詩の一節にひどく惹かれたことがあった。それと同じ感慨をあるいは攝津幸彦も抱いてしまったのである。
だが、その後につづく「思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造
」というところは、攝津特有のレトリックでその時代の文学思想としてともかく納得されている。これを、穏やかに平たく言い直すならば、さしずめ次のような説明がいるだろう。
「俳句形式とは、思想を信条や真情の吐露としてではなく、完璧に詩形のスタイルを完璧に表現することで思いを貫徹する行為である。これは表現の動機からすれば逆説となるが、俳句形式を完成するためにはこの逆説が、まさに正当であり、正統ということの証しであるとされるが、しかしこれは事大主義である。」(筆者翻案)
・・と最低限これぐらいの説明は必要で。このほうが、思わせぶりないちゃもんと受け取られかねない。ともかく、彼はこの「逆説的構造
」から「なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。
」のだそうだ。句もわかりにくいが、散文の文脈も散文詩の一節のように、論理がねじれたり曲がったりしている、攝津幸彦の心底もわかりにくい。しかし、このような理念のねじれや錯綜を情緒的な面もふくめて丁寧に書き込むことを、攝津は誠実に果たしているのである。感覚的に私には攝津の懐疑がよくわかる。そして、人口に膾炙する下記のような名句は、このような韜晦に充ちた認識の中から生まれている。
幾千代も散るは美し明日は三越 『鳥子』
国家よりワタクシ大事さくらんぼ 『陸陸集』
韜晦に充ちた日常詠や、太宰治の発言にこと寄せたマニフェストである。
2 無化された〈私〉
彼の根底にはつよい伝統回帰の心、(いや、回帰ではない。むしろ伝統とは何か、と訊ねる心)、私に執しながらも、自己放棄においつめられるなにかの心理的機制が強烈だといわざるを得ない。言葉もふくめて世界から退こうとする退嬰の心理や自分の生存への危機感や葛藤が、形式破壊をも辞せず形式の本質をきわめようとすすむ現代俳句の形式願望のベクトルとかみ合ってゆく。だれもが抱く葛藤である。その葛藤は、すくなくともその時期までは創作のエネルギー源として効果的に機能していた・・。
先ず、深みのある諧謔というべき独得な味わいと、それを生み出すための高度な技巧・・が驚きをもって注目されるのであるとしても、それは曰く言い難い生存への懐疑という実存的な動機からあみだされているのだ。攝津幸彦に対しては、(あるいは対しても)、私は表現の思想が成立する重要場面として、そのかかわりのありかたを考えたい。
私は攝津の俳句を読むたびに、人生いかに行くべきかについて素朴に素直に考えている青臭い青年の像を思い描き、且つ、最後になって、そういう感慨全体を茶化される。このように句が進む経過や段取りが面白くてならない。彼はきっと、晩年執心した永田耕衣や安井浩司の世界のなにかに反応しているのだ。(今回はこのことは述べない)。そして、きわめて人間的でありながら、存在と言うときに、ふと、懐疑におちいる思考のアンビバレンツをみてとる。そこに大きな大事な示唆を受けるのである。
また。
俳句的自然、俳句のリアリティ、新しい俳句形式の発見という大義や情緒への回帰そのものにも白けきろうとする時、やがてそこに無化された「私」が発見されるのではないかと思った。
(同上エッセイ)
とつづく文意では、「俳句とは?
」と言う「大義への回帰
」を捨てたときに、書き得なかった「私
」が、書き得ない「無化された」すがたのままあらわれるはずだ、これこそ自分が俳句で語りたかったことなのだ。と言う。
きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』
亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)
これは「無化された私
」が、「逆説的
」にそこには居ないことを主張しにあらわれている、と読むべきなのである。(ほんとうにそう読むべきであろうか?)
具体的な解説はこの後に囃したい。