―テーマ:「秋」その他―
執筆者:仲寒蝉・筑紫磐井・岡村知昭・しなだしん・北川美美・兵頭全郎
赤尾兜子の句/仲寒蝉
さしいれて手足つめたき花野かな 『玄玄』
昭和52年の作。一読これまで本稿で取り上げてきた兜子の俳句とは全く趣を異にした句であることが分ってもらえると思う。つまりは我々が通常総合誌で読む類の俳句、逆に言えば兜子らしくない俳句。
そう感じる理由には文体からと内容からとの二面がある。
文体という面では字余りや破調のない定型であること、「かな」という切字が使われていること、「花野」という伝統的な季語が用いられていること、などが挙げられよう。またこの句だけでは分らないけれども、以前に書いたように『玄玄』では『稚年記』ののち長らく新仮名遣いに従っていた兜子が再び歴史仮名遣い(所謂旧仮名)を採用している。要するに全体として前衛俳句らしさから遠ざかり伝統的な俳句の趣を帯びているのだ。
内容の面でも彼が得意としてきた都市、場末というステージではなく自然を舞台に選んでいる。作者を隠して読めば「兜子」という答えはなかなか返って来ないのではなかろうか。
兜子が伝統に回帰したと言われだしたのは昭和44~45年頃であろうか。『歳華集』のあとがきに当たる「赤尾兜子の世界」という文章で大岡信は
昭和四十五年ころを境に、赤尾兜子の句にはある変化がきざしているように思われる。
と述べ、同じ句集の栞に塚本邦雄は
兜子が『歳華集』一巻の最高音部をなす「花は変」の主題句を「渦」に発表した時、私は彼自身の異変を予感した。
と書いている。ちなみに「花は変」の章は昭和44年の制作である。また『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は
しかし『虚像』の刊行後は、しだいに作品傾向に変化を来たし、ことに昭和四十四年秋に行った短期間のヨーロッパ旅行以後は、日本固有の文学としての俳句の伝統に思いを深め、作品は季語を重んじて柔軟な表現となって行った。自説のいわゆる第三イメージの方法からも離れ、俳人兜子として円熟した時期に入る。
と『歳華集』を紹介している。
赤尾兜子本人と話したことも、当時の俳句界の潮流の中に身を置いたこともない筆者が全句集を通して読んですら、このあたりが兜子の俳句の転回点であろうと感じるくらいだから、同じ空気を吸って兜子の言動を見ていた上記3名の詩人が残した発言は正鵠を射ていると言わざるを得ない。明らかに兜子の俳句は変った。それは前衛俳句の旗手が伝統派に変節したなどという単純な図式ではなかったように思う。今は死語に近い俳句の世界の「伝統」とか「前衛」という一時代を画したテーゼの意味を考える上で赤尾兜子という俳人は最適と言ってよかろうが、今ここでその問題に深入りするには字数も筆者自身の読み込みも足りず、後日に別の機会を設けて詳しく論じることとしたい。
彼の俳句の変化は何によるものなのか。和田悟朗の言うように欧州の文化に直接触れて日本固有の俳句の伝統ということを考えたためか。或いは大岡信があとがきで展開した論のように内的必然性に基く変貌なのか。大岡はそれを
赤尾氏は最近の句では、むしろ簡単にはイメジを結ぼうとしないもの、いわば、「もの」や「こと」が「気配」として出現し、あるいは消え去る、その重大な瞬間をとらえることに意識を集中しているようにみえる。これはあるいは、赤尾氏にとって、人生というものが、そういう機微の瞬間において見えてくるある種の光に集約されはじめてきたことを意味しているのかもしれない。
と述べている。また塚本は栞文で『虚像』の句と比べて本句集の句を
『虚像』には影をひそめていた「もの」が、虚は虚ながら色鮮かに詞となって「真」を穿つ。
と表現している。いずれにせよ変化の引き金が何であり、彼の心の中で何が起こりつつあったかは推測する他ない。そのためにはこの頃の兜子の俳句を一句一句綿密に読み進むしか手立てはないのだ。
しかしその後の『玄玄』ではその変化はもっと加速度を増していく。『歳華集』にはまだあった虚が一層影を薄くし、現実にある物や事、つまりは日常が兜子の俳句の世界を覆っていく。あたかも俳句が彼の日記のように読める箇所が多くなってゆく。
さて掲出句にもどろう。一句の意味は極めて明白。花野に踏み入った時、手足に直接感覚として「つめたし」と感じたと言うのだ。海や川ならともかく花野に対して「さしいれて」と表現したところが珍しく、また一句の眼目となっている。一読次の2句を思い浮かべた。
手を容れて冷たくしたり春の空 永田耕衣
手をつけて海のつめたき桜かな 岸本尚毅
耕衣の句は「したり」と能動的なので、恐らくは手を空に向けて挙上しているだけの行為なのに、あたかも創造主が手を空に入れることで温度を下げてしまったかのようにも読める。岸本の句は桜どきの海に手を浸してみてその意外の冷たさに驚いた様子を活写している。冷たいのは耕衣の句では手、岸本の句では海、兜子の句では手足である。では耕衣の句の方が兜子の句に近いかと言うとそうでもない。冷たさの向かうベクトルは
- 耕衣:手→春の空
- 岸本:海→手
- 兜子:花野→手足
であり、花野から手足に移って来た冷たさを感じている点ではむしろ岸本の句の方に構図が近かろう。手足を差し入れてみてその冷たさに驚いているという意味でも岸本の句の方が近い。ただ「つめたき○○かな」との構文は同じでも、○○に当たる名詞の役割が異なる。岸本の句では桜は背景であって冷たさとは無関係なのに兜子の句では花野が手足を冷たくした原因となっているからだ。
前後には妻や母を詠った句が並び、この句も恐らくは実際に花野を訪れた時の感慨を素直に詠んだもののように思われる。抜きん出た秀句とは言えぬかもしれないが愛すべき小品と言えよう。
楠本憲吉の句/筑紫磐井
黄落や滅び行くものみな美し
類想句がいくらでもありそうな気がしたが、思い出せなかった。むしろ短歌にその1つのフレーズが似ているものがあったが。類想句がありそうというのは、普通は作家の独創性を否定することになるのだが、しかし、世界で初めてこの句に出会ったときの感動は計り知れないものがあるような気がする。短いフレーズの中で、自分の思いを120パーセント言い切ってくれたら、それが独創であろうと、類想があろうと構いはしないのだ。だからそれはちょっと宗教の言葉に似ている。最も古い「モットー」とされる「祈りかつ働け」(Ora et labora)はベネディクト会のものだが、この言葉の荘重さは独創から来ているのではなくて、普遍性によるものであろう。英王室の紋章にある「思い邪なるものに災いあれ」(Honi soit qui mal y pense)もそうだ。憲吉のこの句もそうした荘重さを伴っているようである。
『方壺集』、昭和59年11月の作品から抜いた。憲吉晩年の作品といってよいから、憲吉の気分の中にこうした思いが生まれていたとしてもおかしくない。軽佻浮薄な人間が吐く、意外に重い言葉に我々は感動する、文学は宗教でないからである。いや、真の宗教は、宗教に反するところから生まれるべきだからであろうか。
*
詩歌の中で、「美し」などという主情的言葉を使うのは初心者のすることだという批判もあるようだが、「美し」を乱用してまさに成功を収めたのは、客観写生を唱えていたホトトギス派であった。
手毬唄かなしきことをうつくしく 高濱虚子
炎上の美しかりしことを思ふ 高野素十
人の世にかく美しかりし月ありし 星野立子
美しいものを素直に美しいといって美しく感じさせるには、かなり逆説的処方を駆使しなければならない。ホトトギス派は「客観写生」という主情を排するドグマを持っていたから、こうした逆説を十分駆使することが出来た。憲吉はどうであったろう。ホトトギス派とは違って、意外に爛れたような生活から神を求めるような信仰心がほんの一瞬、刹那のようにわいたと思えなくもない。日本で愛されていて本国では忘れかけているフランスの小説家シャルル・ルイ・フィリップ(『朝のコント』の著者)は臨終にこういった。「ちくしょう、なんて美しいんだ!」。極めて俗ぽい言い方だが、上の句の心情に通じるであろう。
青玄系作家の句/岡村知昭
落日にケロケロ笑ふ曼珠沙華 日野晏子
「日野晏子遺句集」(平成7年10月刊、以下『遺句集』と表記)昭和三十一年~昭和三十九年の章に所収、初出は今のところ未確認。
「落日」から放たれるオレンジ色の眩しさと一群の「曼珠沙華」が連ねる花びらの赤の鮮やかさ、この取り合わせが一句にもたらすのは過剰なまでにまばゆい光と鮮やかな色彩とが激しくぶつかり合う空間である。このぶつかり合いを目の当たりにするとき、「落日」と「曼珠沙華」の間にあるはずの余白は、光と色彩の前に塗りつぶされてしまったかのごとく存在を消されてしまっている、まるで他の命あるものすべての存在を消し去ってしまうかのように。この空間に響きわたる「ケロケロ」という笑い声、「曼珠沙華」の一群から次々と放たれる笑い声は「落日」の眩しさを浴びることでますます響きは鋭さを増し、その切っ先はこの空間すべてのあらゆる存在に向けられる、もちろんこのような生きとし生けるもののたたずめる余白のない空間を呼び出してしまった己の存在に対しても、である。だからいくら耳を塞いだところで、自らの生をあざ笑っているかのように「ケロケロ」との響きはこの一句の空間に響きわたっているのである。だが「ケロケロ」の嘲笑の響きなくして「落日」と「曼珠沙華」がもたらす空間は、生死のはかなさへ対する漠然たる叙情に包まれたものにとどまっていただろうことも間違いない。作者である晏子はこの一句の空間に「ケロケロ」という響きを取り込むことを決してためらわなかった、そうすることによって「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩に塗りつぶされた空間にひとりたたずまねばならない自らをあざ笑うかのように。
さて、わたなべじゅんこ氏は著書「俳句の森の迷子かな 俳句史再発見」(2009年11月 創風社出版)の晏子を取り上げた一文の中で、掲出句について「さすがの私もついていけない。どうしてこんな句ができたのだろう。気になる。」
と戸惑いを露わにしているが、その戸惑いについては、ここまでなんとか鑑賞してきた私自身も大いに頷かされた点で、なにしろただでさえオノマトペを一句に取り扱うのは難しい上に現れたのが普段でもめったに登場しない「ケロケロ」なのだから、戸惑いが生じるのも無理からぬところであろうか。その上でわたなべ氏は晏子の作品への印象について(ここでは掲出句を含めたアンソロジーを読んでのもの)、「夫の楽しみのためという、どちらかと言えば消極的な理由で始めた俳句であったせいか、あまり上達しようとの意志を感じられないように思う」
と述べているが、この点については晏子俳句のウィークポイントとして頷ける部分がある一方で、「上達しようとの意志を感じられない」
という指摘にはどこか頷けないものも感じられる。「上達しよう」との意志は草城の死後に夫への思慕をモチーフとして作り続けた晏子にとっては欠かせないものであったはずだし、「草城の妻」としての誇りもあったであろうからだ。ただ俳句を作り続けようとする彼女の前に広がっているのは、自分の俳句の「上達」を認めてくれる存在であった夫、日野草城がいない日々なのである。
掲出の一句に戻ると、一句の全体に高らかに響きわたる「ケロケロ」という笑い声は確かにわたなべ氏ならずとも大いに「気になる」のだが、この戸惑いはもしかしたら一句を作った晏子本人にもずっと存在していたのかもしれない、もし草城ならはっきりと読み解いてくれたかもしれないとの思いとともに。でも当然のことながらこの一句が出来たときに晏子の前に草城はいない。「落日」の眩しい光と「曼珠沙華」の鮮やかな色彩を共に喜んでくれる者の不在を思い知らされるとき、「ケロケロ」という響きは曼珠沙華からの笑い声ではなく、自分自身の嘆きの響きとして現れてきたのかもしれない。果たして「ケロケロ」「ケロケロ」と響いているのは、時を経てもなおも続く晏子の慟哭なのだろうか。その問いに応えようにも、この一句の空間は眩しすぎる光と鮮やかすぎる色彩と、耳障りにも程のある不思議な響きとに包まれて、あまりにも余白が少なすぎるのである。
上田五千石の句/しなだしん
これ以上澄みなば水の傷つかむ 五千石
第三句集『風景』所収。昭和五十五年作。
『風景』(*1)は、昭和五十三年より昭和五十七年まで、四十五歳から四十九歳までの作品326句を収録する第三句集。
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前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後山歩きをはじめ、徐々にスランプを克服してゆき、昭和五十年には主宰誌「畦」を創刊したことは書いた。
第二句集『森林』の収録句数が254であるのに対し、第三句集『風景』は326句を収録しており、「畦」の発表句を含め、落ちついた作句活動を安定的にしていた時期といえるかもしれない。
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掲句は「澄みなば水の」と季語を崩して使っており、順接の仮定条件の形で「水澄む」が出来あがっている。いかにも五千石らしい、ナイーブな感情をものに託してストレートに詠った、五千石の代表句のひとつである。
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ところで、『風景』のこの句の前に置かれた句は
紅葉照る双つ泉を姉妹とも 五千石
であり、この句には「北軽井沢 二句」と前書きがある。つまり、掲出の「これ以上」の句も、北軽井沢で詠まれたものということになる。
また「畦」昭和五十五年十一月号には、同じく「北軽井沢」と前書きの、次の句が残る。
水の脉闇にひびかし冬そこに 五千石
これらのことから、北軽井沢の紅葉の頃、おそらくは十月後半頃の、双子の泉か沼や池での作と推察できる。「水澄む」の季語の季感は九月というのが一般的かと思うが、十月の、冬を間近に感じる頃の写生と思うと、「これ以上」澄めば、という措辞も大いに頷けるところである。
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なお、北軽井沢付近の双子の泉、または池や沼を探してみたがどうも見つからない。佐久市の西側、八ヶ岳湖沼群に「双子池」というのが見つかったが、北軽井沢からは離れすぎというのは否めない。やはり北軽井沢辺りに姉妹のような、名も無い小さな泉が存在するのかもしれない。
ともかくも、「水澄む」の句として口ずさみ続けたい一句である。
三橋敏雄/北川美美
淋しさに二通りあり秋の暮
秋は夕暮れ。「秋の暮」は、日本人の美意識の根源ともいえる壮大な季題である。
格調高い三夕(さんせき)といわれる「秋の夕暮れ」の歌(*1)が収められた『古今集』(平安初期)では、時間とともに物がうつろう「悲しさ」を秋の夕暮れに詠んだ。そして『後拾遺集』(平安中期)以降には、
さびしさに宿を立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ 良暹『後拾遺集・秋上』
秋はただ今日ばかりぞとながむれば夕暮れにさへなりにけるかな 源賢『後拾遺集・秋下』
と、秋に淋しさを強く感じる歌がみられるようになる。そこに「無常」「幽玄」という美意識が後に加わっていき、日本人はなんと高貴な民族であることかと、千年もの昔がありがたい。
「わびしい」「さびしい」という感傷から発展した「侘(わび)」「寂(さび)」は利休・紹鷗により美意識に。さらに江戸・蕉風俳諧では創作理念の骨格となり、貧窮・失意に精神的余情美の深まりを求めたのである。ちっぽけでみすぼらしいものに美しさを詠んだ。
此道や行く人なしに秋の暮 芭蕉
去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村
ちなみに「淋」に「さびしさ」の意があるのは独特の用法で常用漢字は「寂」のみ。俳句では「淋しい」という表記が好まれるようだ。
とにかく「秋の暮」は古くから悲しく淋しい伝承の季題である。
此頃はどうやら悲し秋のくれ 子規
新興俳句弾圧以降、敏雄は、師である白泉、そして青鞋とともに古俳句研究に興じた。白泉を顧みて敏雄は「常に俳句形式の成果を歴史的に見通してみずからの表現力の進展をはかろうとする、かねてよりの思いに従ったまでであったと思う。」
(「俳句とエッセイ」昭和58年)と語っている。
白泉の「秋の暮」を引いてみよう。
向ひ合ふ二つの坂や秋の暮 白泉
谷底の空なき水の秋の暮
そして敏雄自身も先人へ挑むような「秋の暮」の句を詠んだ。
木の下に下駄脱いである秋の暮 『青の中』
縄と縄つなぎ持ち去る秋の暮 『まぼろしの鱶』
秋の暮柱時計の内部まで
石塀を三度曲がれば秋の暮 『眞神』
先人みな近隣に存す秋の暮 『疊の上』
あやまちはくりかへします秋の暮 『疊の上』
上掲句、「淋しさに二通り」の句が作られたのは、1982(昭和57)年。『疊の上』に収録。同年に『淋しいのはお前だけじゃない』(西田敏行主演)という人情ドラマが人気だった。戦後の復興を遂げ、物が溢れ、豊かになったはず国が、どこか「淋しい」。人は我武者羅に生きながら、「淋しい」という言葉に、あぁ淋しいと気が付かされた。
歌詞に「淋しい」「不幸」という言葉が多用される、かの阿久悠の1993年のコメントに、「歌が一番大事なのは、こんな不幸な目にあって悲しいということではなくて、不幸のちょっと手前のね、切ない部分がどう書けるかということが、僕は一番大切なことだと思っているんですよ。」
というのがある(*2)。「淋しさ」という言葉が、人の心を動かし、豊かで便利な世の中が、少し淋しいこと、ということに人々は気づき始めていた。日本人のDNAの中に「淋しいことは美しいこと」という螺旋が組み込まれているのかもしれない。
その「淋しさに二通り」とは、相反する二つの「淋しさ」のことと解する。「理由のある淋しさ」「理由のない淋しさ」、「ひとりでいる淋しさ」「人といる淋しさ」、「お金のない淋しさ」「お金のある淋しさ」だろうか。秋の淋しさを突き詰め、うつろいゆく人の心に世の無常観を詠んだと解釈する。
「あやまちはくりかへします」の句は、掲句の二年後、1984(昭和59)年に作られた。「あやまちはくりかへしませぬから」と論争に発展した原爆慰霊碑の言葉を連想する。うつろいゆく秋に、あやまちはいつか繰り返されるかもしれないという、これも世の無常観がみえる。「秋の暮の淋しさ」を研究し、無常の世を見てきた人の句である。
現在の日本に「清貧」という言葉が再び価値ある言葉として扱われている。諸行無常。「秋の暮」に凝縮された日本の情緒が伝わる。敏雄の句を通し、無常ということについて想う2011年の秋の夜である。
*1)三夕(せんせき)の名歌 『古今集』
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮
心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
見わたせば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 定家
*2)阿久悠の歌詞には確かに、「さびしく微笑み…(ラストシーン)」「私はなぜかブルーさびしい…(ギャル)」「おまえさん雨だよ、さびしいよ…(おまえさん)」など、「さびしい」が頻繁に登場する。
戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎
覗かれる節穴がある秋の末 堀口祐助(1952年 句集栗の花)
第二次大戦後の日本が朝鮮戦争の特需による経済的復興に弾みを付けたこの時期、それでも一般市民の暮らしはといえば、まだまだ貧しいものだっただろう。当時の住宅事情を見ると、人口の増加に対して全くの不足状態でしかもかなり狭小だったらしい。平成生まれの人には想像もつかないかもしれないが、家には隙間や節穴が当たり前のようにあちこちにあった。
「秋の末」というますます寒くなっていくような時期をあらゆるものが足りない貧しさの象徴として書きながら、それでも「節穴」くらいは「ある」というユニークな視線。さらにはそこを「覗く」人がいる、つまりはそこを通る人もやはり同じように貧しく、あるいは家のない人かもしれないという世情も読み取ることが出来る。
秋風やをとめの顔を腹の中 永田耕衣(1951年 驢鳴集)
夏石番矢氏の解説によれば「永田耕衣は通常の美醜の分別を超越する」
とある。「腹の中」を「はらわた」ととればそうなろうが、「胸の内」の意で読めば、男の決意の句と取れる。「胸の内」という言い回しよりぐっと男臭く深いところに収めた感じ。冷たく乾いた「秋風」を背に、男はどこへ向かうのだろうか。
以前、俳句と川柳の違いについて知人が語った中で、「作者の生活環境の差」が関係しているのでは、というのがあった。ざっくりと資料の略歴をみてみると、たしかにこの時期前後の俳句や短歌の作家には大卒や高卒という文字が多くあるが、川柳作家には学歴にすら触れられていないものが多い。単純に「だから」とはいえないが、川柳に流れる生活臭のようなものや俳句の客観的な視線の根底部分には、こんな事情も関係しているのかもしれない。
戰(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕燒 佐藤佐太郎(1952年 歸潮)
短歌なので秋とは限定できないのだが「夕燒」のイメージとして。後半部「悲し曇のはての夕焼」と、ここまで同じ印象の語を川柳では重ねて書けないだろう。それほど14音の差は感情表現において大きく異なる。冒頭に書いたが第二次大戦のあとすぐ朝鮮戦争が行われている最中、敗戦国として太平洋の向こう、かつての敵国への援助を、日本海を挟んだ隣国での戦争のためにしているという葛藤。「悲し」と言わざるを得ない心情がはっきりと記されている。
「秋」とは一方で「実りの秋」というように豊穣の象徴でもあるはずだが、詩歌の場ではもの悲しさや暮れゆく様で用いられる方が多い。川柳には季語の観念が基本的にないが、冒頭の句でいう「秋の末」の表現は、実体験であるより象徴性で語られていると思われる。豊かに実った稲穂ではなく、刈り取られた後の乾いた土に雀が落ち穂を探すようなイメージ。このあたりのとらえ方は、柳俳に関わらず日本人の感情として共通しているのかもしれない。
(今回より、川柳作家兵頭全郎さんに参加いただくことにしました。特に、特定作家の作品鑑賞ということでなく、戦後における短歌・俳句・川柳を比較しながら独自の観点から川柳作品を論じていただくことにしました。詩型交流を銘打つ<詩歌梁山泊>、「詩客」にふさわしい取り上げ方となっていると思います。併せて、簡単な自己紹介と抱負を述べていただきました。・・・筑紫磐井)
【略歴】
1969年 大阪市福島区生まれ。
2002年 ラジオ番組の川柳コーナーに投稿を始める。ネット句会「空の会」入会
2004年 川柳倶楽部パーセント入会
2006年 川柳バックストローク入会、2007年より同人
2009年 川柳結社ふらすこてん設立同人、同誌編集人
2010年 川柳誌「Leaf」創刊同人、同誌編集人
ふと立ち寄っただけのつもりの川柳。それがどうしたわけか、奥へ奥へと足を進めさせられて現在に至っています。そんな中で川柳には、学ぼうとした際に読むべきもの、川柳とはなんぞや、というものがほとんど無いことがだんだんとわかってきました。と同時に、俳句や短歌といったものに比べて様々な点で数十年単位の遅れがあることもわかってきました。
今回、縁あって「戦後俳句を読む」へお招きいただき、この機会に「戦後」という大きな時代の変化のなかで、川柳がどのように現在へと進んできたのかを自分なりに考える場にしていこうと思っています。ただ元来寡読なうえに資料も少なく、ましてや俳句・短歌に関しては完全な素人ですので、あくまで川柳の目から見た読みの文章になると思われます。
当面の材料として1993年発行の「短歌 俳句 川柳 101年 1892~1992 新潮・10月臨時増刊」を用います。刊行年ごとに各ジャンルから1句歌集より20句歌が抄出されており、三枝昂之(短歌)・夏石番矢(俳句)・大西泰世(川柳)の三氏がそれぞれに短評をつけています(刊行年に関しては一部不正確な場合もあるようですが、便宜上この本での年度分けを基準とします)。これを基に、各回のテーマに合う川柳を選び、同年度(あるいは近い年度)の俳句・短歌を比較対象として見ていく予定です。ただし川柳に関しては遺句集が多いという事情もあり、必ずしも時期的に平行していない可能性がありますが、これも併せてその時代の流れの一つとして捉えていこうと思います。よろしくお願いいたします。