ある筈もなき蛍火の蚊帳の中
昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
人の目とは不思議なもので、見えないものを見てしまうときがある。理由はわからないが、その瞬間はたしかにそう見えていたのである。しかし、目を凝らしてみるとその姿は掻き消えて、ありきたりの見知った景色があるばかり。見たくて見たわけじゃない。まさに“見えてしまった”のである。
掲出句は、そんな晩年の齋藤玄に見るともなく見えてしまった「蛍火」の句。
一読、句中の〈蛍火〉は玄の身から抜け出た魂のことだろうと思った。それは、次の古歌を思い出したからだ。
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 『後拾遺和歌集』 1162
言わずと知れた、和泉式部の代表歌。夫に捨てられた式部は、京都鞍馬の貴船の社を詣でて、その悩みを神に告げ、祈る。その帰路、御手洗川のほとりで蛍が飛び交うさまを見て詠んだとということが詞書にある。内容から恋の歌のように思っていたが、『後拾遺和歌集』では、「神祇」の部立に収められている。「もの思へば」の歌のあとには貴船の神の「返歌」が載せられている。神と人との歌のやり取りが勅撰集に収録されているということも和歌本来の持つ対話性をうかがわせて興味深い。
掲載句の〈ある筈も〉ないのに見えてしまった〈蛍火〉について、自註に玄はこう記す。
蛍火などもう絶えて見たこともない。随分昔の思い出の中にしかない。が、青々とした蚊帳の中では、今も蛍火が見えるという期待を持つ。(*2)
この末尾に記された「今も蛍火が見えるという期待を持つ
」という述懐からわかるとおり、〈蛍火〉は玄の眼前にはない。しかし、〈蚊帳〉を目の当たりにしたとき、その〈蚊帳の中〉にかつて見た〈蛍火〉を見てしまったのだ。蚊帳の中で浮遊する〈蛍火〉の幻想的な光景はあくまで記憶の中のものである。記憶の中の〈蛍火〉と現実の〈蚊帳〉を一句の中で読むことは教条的な俳句作法を順守する立場の方たちからは非難されるかもしれない。しかし、作者である玄には“見えた”のである。たとえ観念の中の蛍火であったとしても、それが読者の目にありありと浮かぶが如く伝わったとしたら、それはもはや、観念とは言い難い。詩的造形物とでも名付けるしかないものだろう。
見えるものを見続けて、対象から何がしかの真実をつかみとるというのが俳句における写生の技法だとすれば、記憶の中のものであろうが、現実のものであろうが、区別する必要はない。この句はまぎれもない写生句なのではないだろうか。あえていうならば、幻視の写生とでも分類されるべきものである。
『雁道』および齋藤玄の晩年の俳句には、掲載句のように、対象を描写しているように見せながら、実は作者の観念による屈折をともなった作品が多い。
前回は〈裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈
〉ほか、「鯉」の句をあげて、対象に観念的操作を施すことで、作者自身の内面を描写するという作り方を「観念的同化」と名付けた。今回はそれを確認する意味で、遺句集『無畔』から蛍の句を抽出してみることにする。
葦原を出づる嘗(かつ)ての蛍の身 昭和54年 『無畔』
一句目は、葦の群生する湿原で蛍を見たという原体験がこの句の背景にはあるのだろう。〈葦原を〉離れるわが身は、前世、蛍であったに違いないという詩的断定の句。宿世観を発想の基底においた俳句はそれほど珍しいものではない。しかし、露まみれの蛍の姿を見つめ続け、忘我の時を過ごした作者にとって、葦原から去りがたい思いを抱いたのは疑いない。その心残りを、感情語を用いずに表出するとすれば、前世、わが身がこの葦原で蛍として飛んでいたからだ、としか言いようがなかったのだろう。
掲出句同様、この句にも「観念的同化」作用が認められる。
見ぬ蛍ひとりの糧(かて)は水のごと 昭和54年 『無畔』
二句目は、かなしくうつくしい句である。上五〈見ぬ蛍〉によって眼前の蛍ではないことは明らか。もう、蛍を見なくなって幾年月を経たのだろう、という詠嘆的な断定がこの〈見ぬ蛍〉には込められている。〈ひとりの糧(かて)
〉という語から晩年の孤絶感が伝わる。病躯を養うために一人で摂る食事は〈水のごと〉くである、とは、直腸がんを患っている玄の食事が流動食であったことを想起させて痛ましい。にもかかわらず、この句にはどこか明るいうつくしさがある。流動食で命をつなぐ老人の姿がいつのまにか、水を求めて乱舞する蛍の姿にすり替わって見えてくるからだ。むろん水を求めて遊んでいる蛍は、無明の闇の中にしか存在しない。孤独に絶望した闇を照らすのは観念の中の蛍に過ぎないのが哀しい。
現実には見えていないものを観念の中で凝視する。すると、観念の中でしか存在しないものが現実の作者を取り巻くなにかに入れ替わって立ち現れるという詩的変容が生じる。この句で言うならば、〈蛍〉も〈水〉も現実には存在せず、作者である齋藤玄の記憶の中にしか存在しない。記憶の中で蛍が水を求める姿を思い浮かべながら、只今現在の私はただ一人で夕餉を囲んで生きながらえている。そこに、そこはかとない可笑しみと生きることの根源的なかなしみがこの句を読むと伝わってくる。
観念的同化から観念的転移へと変容した最晩年の佳句である。
冥(くら)きより冥きに出づる蛍籠 昭和54年 『無畔』
『法華経』化城喩品に「従冥入於冥 永不聞仏名」(冥きより冥きに入りて 永く仏名を聞かず)の偈頌(げじゅ)がある。経文の意味は、私たち凡夫は生まれては死ぬことを繰り返し、永遠に真理を悟った仏になることはできない存在だ、ということ。この一節を踏まえた古歌が『拾遺和歌集』にある。
冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月 『拾遺和歌集』 1342
作者は雅致女式部(まさむねのむすめしきぶ)、つまり、和泉式部のこと。歌意は、煩悩の闇から闇へと迷い込んでしまいそうな私に真理の道に導くように遥か彼方まで照らしておくれ、山のすぐ上に輝く月よ、というもの。
和泉式部の古歌に比べると玄の句はやはり、理に落ちているきらいがある。句意は、闇から闇へと時を隔てながら浮かび出ることでしか、その存在をあらわすことができない、それが蛍籠というものだ、ということになろうか。表層の意味だけみるとやはり経文の実存的真理を具象化したに過ぎないようにみえるが、下五の〈蛍籠〉によって、古歌にはない生存の可笑しみが立ち上がっているように思う。
見えないものを見てしまったとき人はふっと笑いをもらす。齋藤玄の蛍の句は、どれも、そのふっと漏らした息のようなさりげない姿をしている。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊