戦後俳句を読む (23 – 1) ー「獣」を読むー 齋藤玄の句 / 飯田冬眞

吹かれゐて美猫となりぬ花薄

昭和51年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

後半生の3句集から「獣」の句を抜こうと読みはじめたが、ほとんどない。だが、驚いたのは、『雁道』の獣の句はすべて「猫」だったこと。齋藤玄は北海道の俳人である。郷土を代表するヒグマあるいはキタキツネなど「北の大地」を感じさせる獣を詠んでいないはずはない!そんな勝手な思い込みのもと、第一句集から読み直してみた。

 敗れたる馬の瞳の稚なけれ   昭和14年作 『舎木』
 競馬場ながき夕を汗し離る   昭和14年作 『舎木』
 兵馬空(くう)を嬰児に花の風展き   昭和15年作 『舎木』
 兵馬征く光に凛凛(りり)とみごもりぬ   昭和15年作 『舎木』
 花ぐもり馬きて馬の影つくれり   昭和15年作 『舎木』

ごらんのとおり、期待は裏切られた。作句時期の昭和14、15年の玄は、まだ、齋藤三樹雄を名乗っており、「京大俳句」および「天香」へ投稿していた頃にあたる。その頃の獣たちは、みな「馬」だった。昭和15年に玄(三樹雄)は郷里の函館で、北海道における新興俳句運動の「指導的機関建設の埋石」(「壺」創刊号発刊の言葉)になることを念願して、俳誌「壺」を創刊している。処女句集『舎木』の馬の句はどれも、モダニズムの色が濃く表れており若々しい。

一、二句目には「函館競馬場」の前詞。俳句を初めて三年目の若書きの句だが、作者の立ち位置が見えてきて好感が持てる。ことに三句目、四句目の「兵馬」を読み込んだ作品は、馬も人間と同様に扱われていた戦時下の生活のひとこまが描かれており、興味深い。軍隊に徴用されて空路で運ばれる馬が〈嬰児に花の風〉をひろげていると詠んだ三句目は、作者の視線の柔軟さと優しさが伝わってきて心地よい。四句目の戦争に行く馬が光を放ち人間の女を身ごもらせたというとらえ方は斬新だと思う。死にゆく命が種を超えて人の胎内に宿るというのは、どこか原始仏教的な味わいがある。人も馬も同じいのちのかけらで、死はその一過程に過ぎないという晩年の玄の死生観の萌芽を感じさせる。

 地吹雪や倒るる馬は眠る馬    昭和47年作 『狩眼』
 牛叱る声に帆下ろす声おぼろ    昭和47年作 『狩眼』
 口に乗る春歌や旱の狐立つ    昭和47年作 『狩眼』

一転して、後半生の句。一句目の〈地吹雪や〉は石川桂郎と厳寒の網走を旅行した折のもの。〈倒るる馬は眠る馬〉は、現在でもどこかの句会に出てきそうなフレーズ。戦後俳句の文体の一典型かもしれない。「○○や××する△△は◇◇する△△」今度、使ってみよう。二句目の〈牛叱る〉の句は船で牛を搬送する港での光景だろうか。この声はどちらも人間の声であるが、対象の違いによって、音に高低差があることをとらえており、聴覚で茫洋とした〈おぼろ〉の季節を描こうとしたものか。三句目には「芦別市旭丘野鳥園」の前詞。旱天の狐の緩慢な動作を見て、思わず春の歌が口からこぼれ出したということだろうが、口ずさむ作者の心象が読者に伝わらず、難解。

雪仔細犬猫とても十字切る   昭和50年作 『狩眼』
牡丹の紅の強情猫そよぐ    昭和50年作 『雁道』
年つまる人の口から猫の声    昭和50年作 『雁道』
大寒のたましひ光る猫通す    昭和53年作 『雁道』
 

どこか、ユーモラスで、軽みを感じさせる句が並んだ。対象が「猫」のせいもあるかもしれない。一句目の〈十字切る〉とは、犬猫が交互に前脚で顔を撫でるしぐさをとらえたものだろう。そこに不穏なものを嗅ぎ取るか、愛くるしさを見てとるかは読者の心象にゆだねられている。三句目の〈人の口から猫の声〉からは年末の多忙な日常が透けて見えてくる。私も仕事が忙しくなるとカンボジアの五輪選手になった猫ひろしではないが、思わず「にゃあ~」という声を漏らしてしまうことがあって、周囲から薄気味悪がられている。

こうして見てくると、戦後の日本人にとって、最も身近な「獣」は「猫」と「犬」のように思えてくる。現在刊行されている俳句総合誌でも「犬句」「猫句」は毎号のように見かけるし、(俳句に)「詠まれた猫」という能天気な連載も好評なのだそうだ。

戦前の「馬」の句とくらべてみると玄の「猫」の句からは、人間に使役されるような悲哀や束縛とは無縁で自由な空気が感じられる。それでいて人間の生活圏内に何気ない顔をして存在する獣。役に立っているのか、いないのか、よくわからない存在。なついてみたり、そっぽを向いてみたりする気まぐれな生き物。なんだか俳人みたいだ。人といっしょに畑を耕し、戦争に行って戦友になってくれた牛馬も尊い獣だが、猫の存在も等価に思える。

吹かれゐて美猫となりぬ花薄    昭和51年作 『雁道』

そこで、掲出句をみていこう。

風になびく尾花を見つめているうちに、尾花が、白毛のあるいは銀毛のふさふさとした猫の姿に変わっていったという幻視の句。尾花の穂が猫の尾に見えるのは当たり前のような気がするが、数千のかわいらしい猫がきれいな尾を揺らしながら小さく鳴いている姿を想像したら、これはこれでかなり壮観だろうと思う。猫好きにはたまらない絵だ。ちょっとエロティックですらある。

作者の心象が仮託されやすい獣として、戦後俳句に猫が独自の地位を確保したことを論証してみたいが、論旨から外れるので次の機会に譲ることにしよう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

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