戦後俳句を読む (22- 2) – 「幼」を読む -齋藤玄の句 / 飯田冬眞

みどりごをつつみに来るよかげろふは

昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。
齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。

俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』

作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。

落雲雀子は雑草にもつれを       昭和25年作   『玄』
麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる    昭和25年作   『玄』
梅天や麻痺の子持ちしわが惨事 昭和25年作   『玄』
麻痺の子を眠りに落す木下闇 昭和25年作   『玄』
麻痺の子の行水あはれ水多し    昭和25年作   『玄』

一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。

二句目は自註の記述から見て行くことにする。

四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)

この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。

三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。

四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。

五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。

みどりごをつつみに来るよかげろふは

そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。

飯田龍太はこの句について次のように誤読する。

眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)

みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。

幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3、5  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*4  飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊

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