1970~80年代の「前衛俳句」と攝津幸彦 (1)
①戦後の「前衛俳句」の収束、戦後生まれの俳句青年の自覚如何?
セッツシンポジウムの企画、司会者大橋愛由等から、一九七〇~八〇年代のこの両者をつなぐ糸、それも「前衛俳句」というカテゴリーでつなぐ糸はどのようにあるのか。なんらかの基礎資料にあたるものをつくってみてくれないか、という要請が出ている。かれは最初」関西前衛俳句」の概念を出してくれと言っていた。私はそれは無理な注文だ、といった。大橋愛由等が望む形での「前衛俳句」は運動体としては存在しない、しかし、話題になったあれはなんだったのか?欠落は多いだろうが、雑誌の目録ぐらいなら出来そうだ。
②「UNICORN 1~4号」(1988/5~1970/2 )」
縄」や「夜盗派」の紙面に、「マンネリズKAWAANIYOUNISURUKA,
ムの影がきざしてきたころ、「UNICORN 1~4号」(1988/5~1970/2 )、季刊の同人誌がだされた。その目次を「豈]39-2特別号関西編)に、酒巻英一郎がまとめてくれている。今、攝津幸彦たちが創刊した(「豈」1980.6)を再読するときに、これが非常に役に立つ。「ユニコーングループ」は、今から見ると当時の「前衛俳句」の俳人と言われた人たちの東西の交流の一つである。俳壇勢力を外れて同人誌という形でうちだされている。関西から八木三日女、島津亮、東川紀志男、大橋嶺夫、門田誠一等、と関東からは加藤郁乎、松林尚志、大岡頌司そして安井浩司が参加。編集発行は「縄」。「花」の門田誠一。
「創造的な精神がいかに可能か、という問題意識を抱きつつ、個々の追求の独自なあゆみを歩む、という真実な意味での文学集団であろうとしている。」(大橋嶺夫・NO.1の[あとがき」)
ハイレベルの「創造的精神」が、そういくつも転がっているわけではない。戦後文学や戦後詩を進めてきた状況的なエネルギー「戦後」が曲がり角にきたと感じられた、ということか。既成観念のリセットが目論まれている、そう言う意味でのある新鮮さが感じられる言挙げである。本質的な理念を打ち立てることが、あるいは不可能であるかもしれぬ場所で、しかし、ここおrみは繰り返される。 私も便宜上その時代の言葉として、「いわゆる前衛俳句」ということが多いのであるが、これほど誤解されやすい名辞と概念はない.出来るだけ、使わぬようにするのか、前衛短歌のようにそれに近い人たちや潮流が、その言葉を規範として受け入れて考えるか、どちらかである。
八木三日女は、私がインタビューにうかがった二十年前にも、既にこれはマスコミのレッテルであり、私たちは「前衛俳句」ではなく、ただ「俳句」を作りたかったのだ、と否定していた。それは、詭弁とか自己弁護とも取れるが、レッテルを貼られるとその周辺だけがとりざたされ、イデオロギーがあたかもその句の文学的本質かのように固定化されるだろうから、「創造的精神」の可能性が狭まる、と感じたその気持ちは理解できる。が、そう誤解される要素も含んで、戦後俳句作家は、民主主義の文化の下で、硬直した結社性や有季定型法ではない、俳句の可能性を求めてきた。
「UNICORN 」の内容は、後年の「日時計」、「黄金海岸」、「豈」、のスタイルのモデルとなっているのではないだろうか?
創刊号目次には、彼ら流の《 伝統と近代》と題して保田與重郎の検証が 連載されている。短歌の前衛的存在である岡井隆の歌集について、《『眼底紀行』の反鏡》として、安井浩司、酒井弘司、松林尚志が小論。杉山平一詩集『声を限りに』が東川紀志男紹介。安西と書く。三日女は、友人の結婚式にでた印象㋨中で、フランソワーズ・サガンの『ある微笑』を引き合いに、結婚式という儀式の定型の受容が、女性の精神も人格も支配することに触れている。(この文章さすが、明快。フェミニズム俳句批評の嚆矢だろう。)
なお、このころ話題になった 加藤郁乎詩集『形而情学』の宣伝。また郁乎の詩が「UNICORN 」誌面を飾っている。三日女、亮も当時の典型的な「前衛俳句」である。
ウルトラを目指して、定型の縛りに自己抑制を余儀なくされている「かなり反抗的なモダニズム」といってもいい。俳句詩型を確立するために、ジャンル交流や領海侵犯を恐れない姿勢が、詩客の試行にもつうじる。事情はよくわからないが、短命で終わったこの「真実な意味での文学集団」
、しかし三日女、郁乎、亮、浩司という顔ぶればすごい。
以下の、戦後世代の小同人誌と、このユニコ―ンは直接には関係ない,としても、ひとつ上の世代の「創造的精神は以下に可能か
」?とかんがえる志向が同じである。
③関西大学学生俳句会「あばんせ」(1968),「全学俳連ニュース」
捨てようと思っていた古い冊子や、「日時計」・「豈」創刊号など、まにあって貴女は幸運です、と言って、攝津幸彦が送ってくれた現物は、ガリ版刷り赤い厚みボール紙で閉じただけ。封鎖状況の中ハタチそこそこの学生が作った文化面でもラジかリズムを発揮、という時代の雰囲気を見せているパンフレット。攝津は学生仲間の伊丹啓子に誘われ、関西学院大学に俳句研究部を作った。松山での全国学生俳句連盟大会、攝津、坪内、澤好摩等が知り合い。日時計創刊の運びとなったらしい。これらも日時計も、戦後生まれの俳句学生の拠点となった。
④ 「日時計」NO.1(1969. 9)~NO.10(1973.3)坪内稔典発行。(尼崎)
創刊号の参加同人は十四名。
参加同人の平均年齢は二十四歳。
私たちはあらゆる場所で鋭く主体を問われています。日時計を安易な慰めの場所にだけはしないでしょう。/
この編集方針は明朗である。同人誌の方法の原則が打ち出されている。
「
参加同人全員の討議から、テーマを決め、編集の企画を決定。/当面は、表現と方法、という特集を設ける。/ 取り上げたい作家を全員で協議(第一回は赤尾兜子)
が、やがて、三年目。8号を出すときにおおはばな遅刊。同人の病気、卒業後の生活の変化、などの理由でリセット。引き続き第二次を発行。これも、二年半でピリオド。
⑤「第二次日時計」NO.9(1972/9)~13(1974.2)
NO.10編集後記は宮石火呂次 屈折する気持ちを書いている。
昭和四四年二月に創刊されて以来、今日で丁度五年の歳月を数えることになります。/僕たちも三十代になろうとしています、(平行して、学生運動もどっかに行ってしまいました。)
さて、根底からの主体のありようへの問はどうなったのか、僕たちは少なくとも、作品を書くという行為の中で問い続けてきました。状況と表現と言語表現のあいだで苦闘し続けてきました。それは、つねに自己否定による自己の確認であった。/
学生から生活者への変化の中で、僕達の営為であったこの13号までの日時計を再びとう返すという意味で、ここにいちおうピリオドをうち、あすの出発の起爆剤となりうることを信じて、終刊の後記を致したく存じます。(宮石火呂次)
第二次日時計13号には、「日時計」解散のお知らせが大きく乗り「天敵」(澤好摩)、と
「黄金海岸」(大本義幸)の双方からのアピールが乗っている。
「天敵」についてはまだよく知らないので、詳述はできないが、やがて解消され、「未定」と合流。
*「未定」創刊。
*「黄金海岸」発行は大本義幸(当時東京在住)。
大本、坪内、攝津、立岡、馬場善樹・宮石火呂次
*「現代俳句」創刊。
*「豈」創刊((1980,6)(発行人攝津幸彦。
私は、豈を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続けてゆくのか、あるいは俳句を断念するのか、その有様をじっくり見てみたいのである。いづれにしろ。豈が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりした決意があらわれているはずである。(s=摂津幸彦)
以下次号。さらに詳述する。
松山たかし
on 2月 2nd, 2013
@ :
歴史的部分で少し誤謬があるように思われます。
記憶をたどって修正をしておきます。
・「あぱんせ」は関西学院大学俳句会の会報で
摂津幸彦が伊丹啓子を誘ってつくった会である。
・全国学生俳句連盟は1965年に結成され
第1回全国大会は愛媛・松山で開催された。
そのとき、坪内稔典と澤好摩が顔をあわせた。
坪内は「青玄」、澤は「いたどり」に所属していた。
・第2回大会は東京、東洋大学で開催。
澤は東洋大学の学生であった。
・第3回大会は京都で開催。
ここに摂津が参加していた記憶はないが?
坪内を中心に立命館大学(馬場美樹、仲啓樹、小生など)
同志社大、同志社女子大、京都都女子大、成安女子大等の
学生で行われていた俳句会が
京都学生俳句会(アラルゲ)で、
全国学生俳句連盟の全国大会には
このメンバーが参加していた。
第3回大会の前後から摂津幸彦は
この会に顔を出し、オブザーバーで
第3回大会に参加していたかもしれない。
その影響で「あぱんせ」をつくったという話を聞いたことがある。
第3回大会が終わった秋頃から
立命館大学等は封鎖され
「アラルゲ」の活動は衰退した。
さらに坪内が大学院に進学。
「アラルゲ」は事実上、解散した(1970年)。
・「日時計」はその70年頃に坪内がつくったもので
「アラルゲ」の卒業生が一部参加した。
ここまでは、ほぼ間違いないと思います。
小生は全国大会には第1回大会から
第3回まで坪内と参加しました。
その後、小生は自由律の「主流」に参加し。
しばらく(船団発行まで)、坪内との交渉が途絶えます。
「主流」にいくつかの文章を掲載していますが
何を書いたか、いま覚えていません。
摂津との俳句での接点はその後、なくなりますが
小生も広告会社(大広)に就職していましたので、
業界の話をよく電話でしたものです。
以上、このページを読んでいて
思いついたことを書きました。
それでどうした?ということでしょうが
ご参考までに、ということで。
最後までお読みいただきまして
ありがとうございます。
administrator
on 2月 2nd, 2013
@ :
松山様
閲覧ありがとうございます。
そして当時の詳細を知る貴重な記録を残していただき御礼申し上げます。
松山様のコメントを執筆者へお伝えいたします。 administrator.北川美美
堀本 吟
on 2月 3rd, 2013
@ :
松山tたかしさま。
拙文をお読みいただきありがとうございました。「あばんせ」の成立事情については、伊丹啓子さんの方が誘ったというようなことを聞いていたのですが、逆だったのですか?
以下、手元の資料で得た私の知識を明らかにできることを上げておきます。
①
私の文章の出典は、今回の場合は、摂津生前の会話の記憶と、おもに散文集『俳句幻景』のインタビュー記録に頼っています。同書の38ページから40ページに、
この事実問題は、作風にはあまり影響しませんが、年譜作成や、作家像の理解するにあたっては、できるだけ正確に知っておきたいので、貴下のご投稿にはたいへん目をひらかれました。
ある日突然伊丹啓子さんから電話が来て、「俳句会を作るからてつだって欲しい。」・・旨
が述べられています。
お母さんの攝津よしこさんが「青玄」にいた関係もあり(その頃は、桂信子さんの「草苑」同人でしたが)
自分の名前を知ったのだろう。ということです。
学生の摂津が、そのとき、どの程度深く俳句に関心を持っていたのかは、わたしにはよくかりませんので、ここまで俳人として大成してきたそもそもの出発点は、周囲に青玄の若手が数人いたことを理由にあげています。
大学時代の「あばんせ」。「あらるげ」。のことかたられ、松山さんが記憶をだどてくださった交友関係についても概括的に話しています。
② 当時のガリ版釣りのパンフレットについて、
手持ちの、「あばんせ」2号 成立年月日がありません。
「全学俳連ニュースNo.1」
松山大会総括と今後の展望」
全高学生俳句連盟発行。
昭和43年11月6日発行
発行所 立命大出町北寮
参加者は、立命大の数人の中に,攝津幸彦、(関学)と並んで松山孝さんのお名前がありました。
松山大会には、参加したのかどうかわかませんが、この冊子にはさんかしているので、おっしゃるように、学生時代の京都大阪神戸、の連携があったようにおもわれます。
記憶も、記述も年月が経つとどこか曖昧になっていて、このようなもっとも原点のモノも、こうして表に出ることもむしろ奇跡的であるかもしれません。
「あらるげ」「全俳連ニュースの全冊」はみたことがありあませんので、もしお持ちならば何らかのかたちで、実際の中身を知りたくおもいます。今は船団に所属されているのですか?
北川美美さんを介して、もしくは、豈巻末の私の住所まで。ご連絡法をお教えください。よろしくお願いします。
今日はたいへんありがとうございました。堀本 吟
堀本 吟
on 2月 3rd, 2013
@ :
追記。
『俳句幻景』・・「南風の会発行」四十ページに、記憶をたどりながら学生時代の俳句事始めの事情が具体的に語られています。これは「恒信風」の村井康司さんのインタビューの記録です。大変貴重な資料で、信頼を置いていますが、本人の摂津幸彦の記憶自体が、完全に正しいとは言えないわけです。
「全学俳連」をリーダーシップのある坪内稔典が組織したこと、東洋大(澤好摩)
「僕ら」も関学にそれをつくったこと、
「第一回の松山大会に/早速ぼくらも参加した」こと、が書かれています。
それは、例えば松山参加、別の角度からの記憶を持ちだとか、また、〈立命館の「あらるげ」の連中〉であった、松山さんなどの別の資料から検証したらもっと確かなものになるはずです。
私は出会いがずっと後年で、今の豈の人でも、1990年以降ですからす、日時計黄金海岸の資料も収集していますが、それ自体が過去の資料です。それ以前の摂津の行動がわかることは、
文章化するとかしないとかはお約束できませんが、しておくほうがいいような気がします。大変ありがたいコメントでした。 以上です。
ご注意。
このシリーズは、ブログがかわって独立「ブログ-俳句空間 戦後俳句を読む」のほうに引き続き欠かれる予定です。この「詩客」にリンクされていますので、またそこでも今後も、ご注目ください。
あらためて貴重なコメントをありがとうございました。堀本 吟
堀本 吟
on 6月 15th, 2013
@ :
訂正。ミクシィの中でもうかなり前に、指摘された箇所です。上の文章の、「Unicorn No1」から採った以下の文章では書いた氏名が間違ってました。
《「創造的な精神がいかに可能か、という問題意識を抱きつつ、個々の追求の独自なあゆみを歩む、という真実な意味での文学集団であろうとしている。」(大橋嶺夫・NO.1の[あとがき」) 》
このあとがき、正確には「後記」ですが、書いているのは大橋ではなく、門田誠一の署名があるので、門田の記事ではないかと。
というご指摘でした。 手持ちの冊子コピーを参照したところ、他にも原文とは違う表記になっているのもあり、例えば、
いかに →如何にして
個々 → (正 各々)
大橋嶺夫→ (正 門田誠一)
あとがき→ (正 後記)
となっており、この他にも漢字なども原文どおりではない箇所があります。(かいつまんだ要約のつもりでかいていたようですが、これではなにより紛らわしいし不正確です。)
ただしい文章は下記の通りであります。
「創造的な精神がいかに可能か、という鋭い問題意識を等しくいだきつつ、各々の追求の独自な歩みをあゆむという、真実な意味での文学集団であろうと欲している。」
と有り。次の連で、
「編集までの仕事に、島津亮、加藤郁乎、門田誠一が当たり、編集は、八木三日女。加藤郁乎、大橋嶺夫、前田希代志の助力を得、」
云々と役割が述べられている。
最後に。(一九六八.三月 (門田誠一) とあるからは、これは門田氏のかかれたものでしょう。
奥付けにも「編集兼発行人」、門田誠一とありました。拙文は、その時は要約のつもりで書いたものらしいので、原文を正しい表記で書きうつしておきました。
誤った記述で、関係者にご迷惑をかけました。おわびもうしあげます。)
お教えくださった橋本直さま。、誠に感謝しています。これは、書き写しのときの間違いだ、と思われます。堀本 吟