戦後俳句を読む(28 – 3)攝津幸彦の句【2012年の攝津幸彦再読】③/堀本吟

一九七〇年~八〇年代の「俳句ニューウエーブ」(続)

先日、《攝津幸彦シンポジウム》(9月8日神戸文学館)のことで、パネラー予定の人たちが初顔合わせをした。その時に、主に私が提案している《一九七〇~八〇年代の新人としての攝津幸彦》というセッティングについて話しあった。そのことですこし整理しておく。

「ニューウェーブ」なる名辞には、やはりそれぞれに時代が通過する青春への期待がうかがわれる。世代はともあれ、言葉としてはそんなに違いはない。求めたれている新しさの内実が違うのである。そしてその時期の「ニュー」はいずれ次の時代の「オールド」となり、波は平となりあるいは頂点から奈落へ向かう。

七〇ー八〇年代は、攝津俳句の初学時代ではあったのだが、既に青春のアバンギャルドをスタイル化していた。一般的に学園紛争中の青春に際立ったメンタルな特徴としてあった、表現の主体を確立する、とか、国家権力との対峙などいうような尖った感覚が横溢しており、「日時計」や「黄金海岸」には、私から見れば紙面全体にそれは際立っている。

中村安伸、岡村知昭、ら『新撰21』『俳コレ』の世代、現在三十歳代のニューウェーブたちは、自分たちの直接の先輩格である岸本尚樹、長谷川櫂、田中裕明等を、一九九〇年代の「ニューウエーブ」と感じてカルチャーショックを受けたらしい。その時に直感する「ニュー」の内実はそろそろ総括されてくるだろうが、彼らは、攝津幸彦に関しては、その青春の模索を言葉でしか辿れない。時代的に連続したものとしてあるのだろうか?中村安伸が攝津幸彦の作品の構造に踏み込もうとしていることは留意すべきであり、岡村が、歴史的成立事情を無視して、摂津俳句の言葉そのものから受ける印象から、読み込もうとしていることは、彼らとしては全く正当なのである。

岡村たちはそういう一九七〇年代を時代の相自体についてはすでにあまり実感がない、だからこそ、彼らが攝津幸彦が晩年に達した、たとえば「静かな談林」という言い方をどう受け止めるかは、私には大変興味がある。

また、学生時代を過ぎてすぐに関西の小出版社海風社に努めて、江里昭彦や坪内稔典、久保純夫、宇多喜代子の本を制作した大橋愛由等が、幾分熱っぽくその時代の彼らを「ニューウエーブ」というとき、攝津が、詩への越境侵犯をかさねつつ。そのエッセンスを融合した現代の談林俳諧人へ向かう内的な旅を選んだことを、いかにみとおすだろうか? 「日時計」「黄金海岸」で、攝津は、赤尾兜子の第三イメージばりの超現実的なイメージ俳句はもちろんのこと、脈絡をもたないダダ的な詩文や。一句に句点を打ちそのまま散文詩のように十数句をつないでゆく表記配列など、詩の領域を侵犯するはば広い実験を重ねている。その徹底ぶりは、坪内、大本、よりも広く深い。それが、『鳥子』を産み、『與野情話』の通奏低音となっている。しかし、それらを生んだ小冊子は今は伝説となっていて、あるいは若い人たちには存在さえも知られていないだろう。

その作家的位置づけを、筑紫磐井がうまくまとめてくれている。

俳人は結社で育つと疑いもなく多くの指導者はいい放つが、現代にあって同人誌だけで俳人として大成したたった一人の作家が攝津幸彦である。/摂津が俳句という表現領域で大学卒業後、広告会社に就職し、/関東に就職するようになってからだ。/攝津は、結社の俳句作家とは違った独自の方法論を持っていた。『攝津幸彦選集』(邑書林)

それから、ここに、『アサヒグラフ別冊―平成俳壇・歌壇』。一九九二年十二月刊行。(齋藤愼爾編集)というムックがある。朝日新聞社が連続して、近代俳句以後の俳句を、カラーグラビア、写真を多く使った大判のムック版でシリーズ編集したもの。ビジュアルな俳句雑誌が俳句ブームに一役買った。短歌についても読みどころの多い。

主な特集《平成俳人群像四十一人自選十句》には、今は亡き鬼房、敏雄、六林男、信子、郁乎等が健在。そして、戦後俳句の作家の流れがつきるところ、その当時に最もなうな俳人として坪内稔典、夏石番矢、長谷川櫂と、並んでいる。

さらに少しページが進むと。そこに《現代俳句のニューウエーブ》で紹介されているのは 攝津幸彦、江里昭彦、と私堀本吟であった。(自分で言うのはなんだが、二十年前は私も若くて初々しかった)。それはともかく、攝津はそこにこう書いている。

二十代の若き日。加藤郁乎に、摂津の俳句はインチキだ、と言われたことがある。/本物が歳月を重ねてインチキであったとわかるのは絵にもならないが、インチキがそれを重ねることで、段々本物に近づくといった構図は、なかなかに俳諧風でよろしいと、/今でも、インチキを無駄や無意味という言葉に置き換えてたのしむことがある。/

彼は幼少時に「めらりともえあがる太陽がみどり色の一片を見たい」とおもいつづけそれを〈緑閃光〉となづけ、俳句形式の現れる周辺にもそれを見たい、と念じる、という。

「俳句形式のあるべき姿や日本語の美しさ、そして言葉そのものの匂いや肉体性が正しく認識される場所にこのみどりの光は隠されてあると、信じているのであった。」<(以上引用文はアサヒグラフ当該号。)

自分の過去のある時期の文学的初心に触れている。「めらりともえあがる太陽のみどりの一片」を見たいという過剰な夢と。それが無意味であるという自覚との狭間に、攝津とその時代の青春の夢がのっぴきならずしかも空虚なものであることが告白されている。一流の諧謔があり、文章の運びがうまい。攝津の表現思想の触りの部分である。

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