1970~80年代の「前衛俳句」と攝津幸彦 (2)
~日時計3号のシンポジウム。兜子・幸彦・稔典・寛章~
一
前回、敗戦後の俳句を一次駆け抜けた前衛俳句の転換を告げた感がある同人誌「Unicorn」のことを書いた。(綴りをまちがっていた、最初のU以外は小文字である。申し訳ない)。ひとくくりに「前衛」、といっても、それぞれ方法や体質が違い、この人たちが一緒にやれるのも不思議であるなあ、と思わぬではないが、三日女、亮、郁乎、浩司が、一誌に会している光景は、眩しいものであった。時は、六〇年安保闘争が収束して、七〇年代に入ろうとする頃である。
「俳句評論」は一九五八年創刊。「海程」は一九六二年創刊。「高柳重信は一九六八年に総合雑誌「俳句研究」の編集長となり俳句史上画期的な知的オルガナイザーとして敏腕を振るった。一九七三年に新人発掘のために「五十句競作」を企画公募し、攝津幸彦もそこで注目された。現在、芝不器男俳句新人賞が平成俳句を担う新人を発掘する舞台となっている状態を想像して欲しい。いつの時代でも、ある時期が来たら新人が待望され、小さな場所に芽吹いた芽を育てるそのためのステージは考案され用意される。インターネット時代の今と、一九七〇年頃とは、また様相もテーマも違うのではあるが,情報社会時代が本格的に始まるハシリの時期である。。
二
そのような中で、「日時計」は一九六九年二月創刊(坪内稔典、攝津幸彦、伊丹啓子、澤好摩、他)。一九七四年二月に十三号を持って終刊。会員による討議から、当面は【 表現と方法】を共同テーマとしてかかげることが、編集後記にあり、同人が毎号そのテーマのコラムの短文を寄せている。(これは8号まで1971年12月までコラムが続いており。シンポジウムは第一回赤尾兜子、第二回伊丹三樹彦を招いたあとは中断。)
1号《澤好摩、立岡正幸》《招待作家。赤尾兜子》
2号《攝津幸彦、立岡正幸》《招待作家 五十嵐研三》《評論寄稿、中谷寛章-揺れながらの上昇-俳句方法論序説》
3号【シンポジウム第一回 表現と方法 ●現代俳句の発想と方法《第三イメージ論を中心に》】
出席は、赤尾兜子(渦)、攝津幸彦、坪内稔典、中谷寛章(渦)、三宅博子、山内清(地帯)。広瀬道子(集団55)。立岡正幸(司会)。詩人も参加していることと、赤尾兜子の片腕として「渦」にいた論客中谷寛章が雄弁をふるっていたことも興味を引いた。
いま、「日時計」全巻を手元において目を通しつつあるのだが、平均年齢二十四歳、時あたかも大学封鎖のさなかであることもあり、全体が活気ありむしろ、攻撃的な知の志向性と、情況=外部への強い関心がめだつ。
「私たちはあらゆる場所で主体を問われています」(創刊号)、「俳句は私たちの実存の総体の中でのみ全体的に考えることができる」(2号)。「僕らが今日俳句作家に望むのは、語義通りラディカルな精神だ。我が国の精神風土の血脈をえぐる思考だ」(3号)。
この後記は坪内稔典。五十年前のことをあげつらう意味ではないが、かっこいい。もう一度ネンテン氏ににこういうことを言わせたいものだ、とふと思った。坪内、攝津たちが学びたかったのが、赤尾兜子の「第三イメージ」説であった。
三
「日時計」3号の座談会の進行(/ 印のところは省略部分。丸括弧内は筆者のまとめ。)
~【なぜ書くか。書くという行為について】~
攝津・大学問題で発せられる言葉は、甚だ欺瞞性に富んだもの。/例えばカリキュラム編成というものを、帝国主義的な改編と結びつけるところがある。/(それと)僕らの内部の言葉が引き離されて/カオス的な言語状況を生じる。強大な空白感に悩まされ/言葉に対する不信感が生じる。(じゃ、どうすれば良いかといえば、「言葉が形成される意識」に問題を移す。)/映像化されない言葉をふたたび言葉にしてゆく、イメージの発想の根源を、常に問い返す作業が必要。/
摂津の言うディスコミュニケーション的思考に対して、中谷と坪内は学園闘争の情況的な中での発語を問題にする。書く行為には、自分を表現することのほかに、状況に切り込む言葉がある、という中谷。この情況で作品を書く行為が犯罪的に思える。と坪内。攝津は、自分の肉体から発した言葉が必然的に伝達性を帯びることに「不潔感」を持つ、という、その感覚にこだわる。
攝津「自分自身だけが感動できる/自分にとって絶対的な言葉を要求するのです。」
中谷「肉声ということですね。言葉そのものが自分の身体の一部である、というような。」
攝津は、イメージには情況(外部)が既に入ってきているから、最終的に、その目的意識を、作る前のイメージが持ちうるか、という問題にたどり着く。意外にもこれに賛同して、
中谷「肉体的言語というものを書き得たら、もう、そこに、/ものの存在すべてが入ってくるとは、僕も思うのですがね」。
摂津「しかし。言葉を使って語るってゆくところにしか何も生まれてこない、という気もする」。
と、悩みは堂々巡りする。青臭いといえばいえるが、大学紛争の情況は、表現の方法にも反省を强いているのである。攝津が提示した、肉体を出てゆく言葉に対するこだわり方も、己のアイデンティティに対する懐疑をあらわしたものであろう。彼は、発想と方法について、俳句以前の発想の根拠にある、として、次のようなことを言う。
摂津「肉声というものをどう多元的に発散させるか」ということ。
摂津「死滅した冷たい植物的な言葉を使っで意識的に語呂遊びをやることで、僕達の肉体に何か帰ってくるのではないか、ということを考えているのですが。」
日時計は、その実験工房であった.(8,9号)には《俳句前史》という、行わけのない詩文もと往生する。
議論はこのあとながながと続く。「インサイダー」(体制)、「アウトサイダー(体制外・あるいは反体制)」、「インサイダーの中のアウトサイダーでいいのか」というような、当時流行りの言葉が飛び交うのは、懐かしいが、でも、要するにこれは一種の言語操作であるからして、やがて来る不毛感も予測される。摂津は、「政治的情況の論理化を強いられてる」情況下では、「それ以前の、言葉で表わされない状況をインサイダー的な立場から俳句に定着させようとする行為をとるのですよ」。
四
~【第三イメージと情況】~
前衛俳句の理論で一番謎めいているのがこの「第三イメージ」論であった。以下は兜子自身による自論の展開としては、貴重なものである。
赤尾・(「情況」論議をふまえて)。今日的情況(現在目前)と、普遍的情況(もうすこし先のまでの状態)の両情況を支えて第三イメージは尚且つ成立すると自分では思っています。/イメージという言葉が非常に安易に使われている。/なぜこんなに簡単にイメージが出てくるのか、といえば、テレビというひとつの媒体がイメージを流しているからですよ/
概要すれば、第一イメージ(テレビが流す「アンフォルメルなイメージ」も避けられぬ。これもイメージの一部だが、全体ではない)。第二イメージ。(ものの存在の根っこをたしかめる、「現出的イメージ」(サルトルの実存的な確かめ方)) 「一本の樹なり、岩なり、塩なり jしか残らない状態、これは不動のものです。」。
第三イメージとは?・・・ 兜子は以下のように語る。
赤尾「その両者の二つを把握して、第三イメージが構成されれば、これは単なる俳句上だけの方法論ではなくて、一つの詩の構成方法としても異論はなかろう、と思うのですよ。」
兜子の提言に向きあう若き坪内、摂津の二人が質問形式で追い詰める意見陳述は、今日読んでもなかなか迫力がある。
坪内「原質的なイメージを捉える作業は論理的であるか」
赤尾「いや、論理より少し重い解体できないもの」
坪内「確かめてゆくためにどんなエネルギーの燃焼があるのか?」
攝津「先生の「存在」とは、僕らが意識する以前に存在しているのか?」。
赤尾「いや/石は千万年前からあったかもしれないが、その石の存在的生命をどうやって確かめるかは、自分の力で確かめるのですよ」
攝津「そこが我々が論理的になる所以」
赤尾「論理的一辺倒ではこまる」
攝津「新しさを求めるために石を鉄にしちゃうんです」
赤尾「それも論理的プロセルがありすぎる。/石が直ぐに鉄にならなければ、と思う」。
坪内・情念が非常に論理的に捉えられているのが、第三イメージに注目するところ。
赤尾「/(詩)」より俳句は知的操作を動員して定形との格闘を自律させなければ、他に方法がないのですよ。(イメージ自体はドロドロしている)」
(論理と情念が一塊になっていて切り離せない、ということがはなしあわれる。)
五
【感受と論理】【現代俳句の今日的位置】【現代詩と俳句】と続くが、ここでは省略。
シンポジウムは、 ~【第三イメージをこう考える】~ の章でおわる。
坪内「第三イメージは、日常的突如や時間が失われたある非常に作られた空間ですね。」
赤尾「現存にべたつきではない。日常的な感情を後ろに回して、第三空間に持って行っているつもり」。
坪内「第三イメージは長い詩にも使えるのでは?」
赤尾「可能性は感じる、みごとな作家がいれば」。
坪内「その場合俳句形式をこわしてゆくのではないか、形式の根拠が薄くなる」
赤尾「僕の場合/季語を第三イメージに持ち込んでいる。そこで、かろうじて俳句を支えようとしている。季語はそれ自体で俳句的に機能する。
坪内「しかし、歯止めになるでしょうか?第三イメージというのは俳句を壊す、洪水のような力を持っていますよ」
赤尾「(山本健吉は俳句は時間性のない詩だ、といっているが)、僕は俳句が時間のない詩だということを崩すつもりです。」。
坪内も、中谷も赤尾自身も、第三イメージが俳句を壊す考え方だ、という。
赤尾「中谷君があたりが壊してしまうんではないかね。、第三イメージを継承して。」
中谷「哲学にザインとゾルレンの世界をつなぐ架け橋として種々かんがえられているのですが、ひとつその構想として第三イメージ論があるのではないか、と思っているのです。一方ではザインの世界に足をつけ、一方ではゾルレンの世界に手を届けているという、そう言う感じがするのです。」
会は、ここで時間切れ、最後は摂津幸彦は沈黙していたようだが、攝津の初期の俳句には、座談会中の方法に関する発言が、照応できる、坪内稔典は正岡子規にかえり、論客中谷寛章は夭逝した。赤尾兜子もまた。同人誌「日時計」が目指したものは、次のステージに送られる。このメンバーの顔合わせ自体が、現代俳句の方法探求の過渡期の情況である。