抛らばすぐに器となる猫大切に 『輿野情話』
岡村知昭
この一句に登場する猫、どこから見てもまぎれもなく一匹の猫でありながら、どこか実物の猫ではないとの印象を強く感じさせる。だいたい猫がそうやすやすと「抛らば」を許しはしないだろうし、「抛り」だされた瞬間の位置と高さによっては、「器」としても「獣」としても完膚なきまでに壊れてしまいかねない。ならばこの猫はなにものなのか。
私たちが猫に対して抱え込んでいるさまざまなイメージ、俊敏さ、狡さ、柔らかさ、そして生命力。これらがひとつの形としてまとめられ、一匹の猫が目の前に現れる。「すぐに器となる猫」は俳句形式によって映し出された、かつて見たことのなく、これからもおそらくは現われることがないであろう幻の猫の姿なのだ。この猫を「大切に」しなかったら、今度は「すぐに器となる猫」に自分自身が「抛り」だされてしまい、「器」としても「命」としても粉々に砕け散ってしまうだろう、間違いなく。
大橋愛由等
愛猫家である私は十歳代後半、逆さにした猫を高所・低所から布団の上に抛り、きちんと着地をするのか繰り返し実験したことがあった。結果は、どんな距離からでも四本足でしかと着地する見事さ。猫というのは動物としての原初性をたたえているのだと深く感受し、さらにその猫を愛した想い出がある。この句の〈器〉とは猫が着地したその瞬間の静止したさまを表現したものか。
そしていま、拙宅には仔猫が二匹いる。ほたえて(遊んで)いるか、餌を食んでいるか、寝ているかの三相を繰り返す彼らを眺めていると、浮世の憂さをしばし忘れさせてくれる。
さて、猫に関する季語はいくつかあるが、この句は無季である。まあ言ってみれば猫そのものは〈季節を無化する〉ありようであり、その意味で〈無・季/超・季〉な存在であるのだが。
中村安伸
子供の頃よく猫を抛り投げて遊んだ。投げられた猫はきれいな放物線を描き、落下の直前にくるっと回転し難なく着地する。
猫は空中に放り出された瞬間魂のない物体となる。しかしそのまま地面に激突して壊れるわけではなく、着地の寸前に魂が舞い戻り制御をとり戻すので ある。下五の「大切に」というセリフからは様々な心情を読み取ることが可能である。猫を抛り投げるような乱暴なことをするなという自戒。肉体という器を自由に出入りするかのような猫の魂への畏怖。
そして、最も強く感じられるのは、自らがこの美しい獣を飼い主として所有していることへの満足感である。
堀本吟
「ほうらばすぐに(7音) うつわとなるねこ(7の字余り8音) たいせつに(5音)」。 猫を抛りあげたとたん体をくねらせてバランスをとる、みごとに着地するまでの「7、8、5」の緩やかな文節の流れがたのしい。だが、「苗」という旁は、「けもの」篇のそばを離れ、4個の「口」、「一」、「人」、に分かれ違うパーツになりかわる。「苗」は「器」という別の文字(オブジェ)となる。抛り投げても猫は壊れないが器(うつは)は壊れる。「大切に」扱ってね。あっけないほどのわずかなズレと組み換えによって秩序は毀れ、世界は変貌する。想像世界は奥が深い。実在とイメージと言葉と文字。これらのめまぐるしい置換えが。そして、かろうじて我々にはまだ「猫」とこのように存分に遊ぶことのできる平和な日常があることを大切にして、いざ、摂津ワールドへ。