戦後俳句を読む (12 – 2) ―「記憶」を読む― 上田五千石の句 / しなだしん

鰯雲くづれは雲の襤褸なる       五千石

第二句集『森林』所収。昭和四十五年作。

この句は、俳人協会新人賞受賞後のスランプの時期のものであり、『森林』の、この句の制作年、昭和四十五年の作品はわずかに8句であったことも前回書いた。

        ◆

この句について五千石は自註(*1)で、短く、次のように書いている。

「特攻隊くづれ」とか、「役者くづれ」というが、ここでは「鰯雲くづれ」。

 

「襤褸」は「ぼろ」ではなく「らんる」と読む。「襤褸」とは、破れた衣服・ぼろぼろの衣服・また、ぼろきれ・ぼろ、のこと。つまり、鰯雲の崩れた雲、または鰯雲になりきれない雲はボロキレのようだ、ということ。なんとも捨て鉢のような句ではある。

        ◆

私はこの句の下地になっているのは、昭和三十七年の、

流寓のながきに過ぐる鰯雲      五千石

ではないかと考えている。

流寓(りゅうぐう)とは、放浪して異郷に住むこと。以前にも書いたが、五千石は戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失っている。

この流寓の句の自註には、

「流寓が流寓でなくなってゐるところに人生の寂寥性がある」

「鰯雲は、倦怠の象徴と思はれる」(山口誓子評より)

と、誓子の評をそのまま載せている。この評が行き届いたものだったことを顕していると見るべきだろう。

著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で次のように記しており、それを裏付けている。

《前略》(流寓が)あまりに「ながきに過ぐる」ということになりますと、もはや
「流寓」が「流寓」ではなくなっているとでも言いましょうか、妙にさびしく、
うらぶれた気持ちになってしまいます。天を覆う「鰯雲」をうち仰ぐと、いよいよ
そんな思いに胸ふたぐばかりであります。《後略》

        ◆

この二つの句は「鰯雲」が共通するというだけではなく、鰯雲を見上げたときのあきらめにも似たさびしさの極みがベースとなっているのではないだろうか。五千石の少年期の「記憶」の句だと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊

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