インパラ 沼谷香澄
きっと私は幻影だったに違いないTシャツの宇宙ネコのように
睡眠において、その前後の覚醒間の時間が跳んだように感じられることがあ
る。ただしよほど疲れて疲れ果てたくらいでないと、または眠りが泥とか丸太
とか言われるほどに深くないと、睡眠中の時間の存在を疑うほどにはならな
い。普段の夜の眠りにおいては、細かく意識は浮上していて、たとえ覚えてい
なくても目覚めたら時計を見て今何時ころか、現実と意識合わせをしながら眠
りを先に進めているように思うが、どうだろうか。
みずいろのサージキャップをたるませて目尻も大黒天な麻酔医
担当の麻酔科医は天然系の女性で(話す内容には無駄や逡巡がなかったのであ
くまで推定)、これから施される痛み止めのシステムについて背中を丸めて大
きな目を見開いて訥々と説明してくれる顔を見ているのが楽しかったがそれは
置いておく。
説明をして顔を見るタイミングふふっと笑う笑わないけど
本番においては意識を落とす薬の濃度を段階的に高める方法で、「わたしはね
るんだな」という自覚が得られる程度の状態を一定時間(9文字きちんと思う
くらいのまとまった時間)キープされてから意識が落ちたわけなので、戻って
きた意識もそこから始まってなんとなく区切りというものが感じられて、忙し
く立ち働く人の気配に向かっていま何時ですかと思う余裕があった(聞いては
いない)。その時人工呼吸の管がまだ気管に入っていたはずだが感覚はなく、
そこからしばらくは、小刻みにタイムリープしながら手術台からベッドへ、3
階から8階へと移動したらしい。
覚醒が切り貼りされたこともあるオーディオテープの編集のように
それは、以前同じ個所にメスが入ったときの文字通り時間を切って貼ったよう
な記憶とは、異なっていた。四分の一世紀の間に患者の人間性が復帰したと思
うことにするがきっと現実には担当医のキャラの問題なんだろうと思う。
メニューからシャットダウンを押してから無が訪れるまでのぬくもり
ちなみに覚醒は全身おそろしく疲れたイメージから始まった。直後から何回か
筋肉に力を通してみて、四肢が自分の制御下にあることを確認できたので安心
して寝なおした。
さんかくのこびと一億人くらい神経叢をのりこえてくる
手術室担当の看護師の説明によると、麻酔で利かなくなるのは感覚だけではな
いという。筋肉や、生命を維持するための大半の内臓の働きも止まる。呼吸も
止まる――正確にはほとんど止まっているのと同じくらいに小さくなる、との
こと。そのため人工呼吸器を使う。
戦いと思うしかない身体の意識に入り込む異物群
「心臓は?」「止まりません。」少なくとも私が受ける手術の全身麻酔におい
て心臓は止まらない。一般論として必要があれば心臓を止めることも可能で、
心臓の代わりをして体を生かし続けるための機械が製造販売されているのは私
も知っている。電源を落とさなければシステムは落ちない。人体において電源
とは、ガス交換だ。
まほろばを中途半端にことほいで切り分けられる希望(すっぱい)
ここで大きな疑問が浮かんだ。自己意識の同一性は、一度途切れた前後で保た
れているのだろうか。一回死んだ身体に再び宿った、紐づいた、さらに正確を
期すると、ともにあった、心は、意識は、その一回死ぬ前のものと、本当に同
じだろうか? 考えてみてほしい。身体のほとんどの部分は機能を停止するの
だ。言葉を変えよう。死ぬのだ。末端の臓器の生死は人の死亡診断に影響しな
い。たくさんの物理的身体器官と一緒に、意識も、一回死んで、また医学的な
操作を施されて、元の状態まで戻ってくる。そんなバタイユな! 私は一度死
んで置き換わったに違いない。そもそも全身麻酔からの覚醒後の活動は嘔吐か
ら始まる。それは生まれ直しに決まっているではないか。違うか?
炎とは火の穂 そのうち風媒花の支配がくるよ我々の目に
落ち着け。意識がなくても生命は続く。生命が続いている個体に断続的に表れ
る意識は同一である。切れていないのだ。生命にとって意識とは何か。電源が
入っている限り見ることのできる映像のようなもの、ガスが供給される限り見
ることのできる、炎のようなもの。そういうことだろう。顕在意識という言葉
があるから、意識のない間には対義語である潜在意識はしっかり生きて活動し
ていると考える必要がある。
無意識のほうが都合が好インパラ角の螺旋を伸ばしておいで
泉鏡花の『外科室』によると、麻酔中ひとはうわごとを言うのだという。もし
かしたら、太い人工呼吸器のパイプを喉に通して声帯を動かなくするのは、呼
吸を確実にするのと同時に、本人の関与の有無にかかわりなく、患者のうわご
とを聞きたくないという外科医の願望が採用した技術なのかもしれない。麻酔
中どころか覚めてからしばらく、挿管の影響で声は出なかったのだった。
捥いできた蜜柑とわたし悪党が罰を受けない世界に閉じて
目覚めないうちに聞こえた音楽がホラー映画のようにゆがんで
今様のマンドラゴラのたまゆらを征きて還りし物語なり