数の来歴に関する往復書簡より コマガネ トモオ
翻訳がとりこぼすニュアンスを逃さないように,
あるいは早急な情報収集のために必要に迫られて
外国語を読む機会ができた.
四苦八苦して独力で読もうとすると見えてくる境界がある.
境界は地図を描けるだけの領域に渡る.
広げた地図を実際に旅するのは両足でなく,左右に流す視線である.
グーグルマップで写真とシェーマとを切り替えるように,
情報収集の目的たる言葉の意味と,付随する言葉のリズムやその歴史とを
切り替えながら
空から俯瞰し,それ以上近づけば空白が示されるまでの近距離へ,接近する.
あまりなじみのない言語や,
それがたとえ日本語であってもなじみのない文法は,
とかく脳の筋力を要するので,
なかば力任せに山や草原を駆け抜ける.
(私は裸足で,丸腰で,実際脚力といえるほどの脚力もないうらなりだけど,
こんな谷あいを一人歩けるのだ)
ふとこの仮想の足どりはしかし,実際の山や谷,戦線の境界を越えて
かつて中世や近世,あるいは今でも,勇敢な旅人がたどる道のりそのもの
なんじゃないかと気づく.
この際限のない行程のとある峠,とある頂きから,友人に手紙を出す.
N.K.B.へ
ともかくすごいところまで来てしまった.というか私たちは常にすごいとこ
ろにいるんだね.雲海から飛び出る頂きや,入り組む海岸線,どこまでも続く
赤土の街道の中央地点に.普段使いの言葉が私たちの棲みかや交友を広く深く
記憶しているのは,鞄に全財産をつめこんで旅しているみたいな気分で,
とても不思議です.いつも身につけているものが,実は宝箱の鍵であった,
という児童書の物語のような.そんな驚きがあるよ.
この旅に来てまず思ったのは数字の「1」はいろんな言語で音が似てるなと
いうこと.どれも母音をメインにして,地理的に近い場所から,グラデーショ
ンで似通っている.
ウノ,ワン,アン,アイン,イー,イチ
人の移動やコミュニケーションを感じる言葉だなと思う.
でも「2」になると途端にてんでバラバラじゃないかな.
ドゥ,トゥー,ツヴァイは似てるか.でもニ,アルはどうだろう.
人類は1まで共通だったのに,たった2人集まったところで,
たった2人目を数えたところで,バラバラと解散したということかな.バベル
の高層建築の工事中に起きた問題は,一部で言われているように,単にたくさ
んの工人が集まったという事実だったのだろうね.
人がいればいるだけ言葉が通じなくなった.
世界は私一人で完結していれば分裂も分断もなく,美しく統一されていたのに,
ただ一人の他者の出現で,もろくも分解してしまうものなのかな.
N.K.B.より返信
面白いのでつい辞書をいろいろ調べてみました.「私とあなた」のIchとDu
も,1と2の関係と音が同じだね.ちなみに,ドイツ語の私「ich」は日本語
の「いち」と,アルファベット表記があんまり変わらないね.
d-th-zまでの変化は,舌の長さや口蓋の骨格が違うために起こるのかな?
ギリシャとラテン系はduo, duplo, diなど、dをめぐる音が2を表している
けど,dは英語の濁ったthに音が近いよね.インドゲルマンの英語ではtw,
ドイツ語ではzwになっている.日本語の「2」は「に」で確かに濁りない音
で,dやthには似ていないみたいだね.「に」がどこから来るのかは分からな
いけど,ギリシャ語で「二つの」「二重の」を表す接頭語のdi-は,日本的な
読み方によっては「次」(じ)になるし,「ディー」と言うときに舌を軽く当
てるだけにすると,「ニー」と聞こえなくもない.それともNiには別の語源
があるのかな?
N.K.B.へ返信
なんと,2も素直に似ていたとは.さらに2と似が同じ音なら,まるで
2人目とは私の似姿そのもの.先ほどまで境界を越えた向こうの宿敵だった
2人目が,鏡をはさんで得られた鏡像,私の生きわかれた兄弟であったとは.
私は一郎,あなたは二郎.私たちに雪は降りつむ※.私の友よ,朋友よ.
しかしトモ,という言葉も今度は気になってしまいます.CT,身体の内部を
被爆とのさじ加減でどうしても緊急で画像化したいときに撮られるcomputed
tomographyの中に私の朋友がいるのが気になる.断層画像トモグラフィー.
トモはラテン語で分断を意味するように思うのだけど,友はやはり私とは大き
な溝を隔てた向こう側に?
N.K.B.より返信
トモグラフィーのTomoは、たしかにラテン語のtomos(独Schnitt),ギリシ
ャ語のtemnein→tomieから来ているんだね.Tomosは一つのものを切って分け
るから二つが生まれるということなのかな.2とトモの関係を思えば,たし
か朋友の朋の字も,つがいの鳳凰が並んで対になった姿からきた文字だったよ
ね.トモの音で言えばヨーロッパ語でよくある「Thomas」や「Tom」は,十二
使徒のトマスに因んでいるそうだけど,その語源はギリシャ語の「Didymos」
(ディデュモス=双子)なんだって.たしかにDuoも「二つ」だよね.「two」から
「zwei」まで,多少少音と表記は変わっていても,起源は同じみたいね.
言語の世界共通性,バベルコンプレックスだね.私もそういう話には
わくわくしてしまう.
私は裸足で,丸腰で,実際脚力というほどの脚力もないうらなりだけど,
こんな仮り結いの谷あいを闊歩する.……もう一人ではなく,
たくさんの人が集まった,話した,その痕跡を色濃く残す
この言葉という谷あいを.
※は,三好達治をふまえて.
謝辞 長年の友人であり舞踊研究家のN.K.B.氏とのメールを元に,手紙部分はメールの文面をアレンジ・コラージュしてこの詩を書いた.地に足のつかない私の気まぐれな問いかけに,言葉の谷あいまでおりてきて一緒に散歩してくれる友人に感謝する.