キーンさんの台所 森川 雅美
もうここにあるのは難しいかと八月の熱した風の語り、キーンさん
の台所ではどんな日本食でも食べますから、降りつづく多くの人た
ちのやがて見えなくなる言葉の、わずかな響きの素材を生かしなが
ら丁寧に下拵えする、さらに次の時間に結ばれる深い傷を残したよ
り奥底へ、不意に流れ出す意識の底部の語りきれぬ膨大な記憶の、
もうここにあるのは難しいかと八月の熱した風の語り、深い意識の
底部へと流れ行く数知れない作家の笑みや、告げられぬ苦悩の先に
キーンさんの台所の豊かな肉の、柔らかく追われる人たちの先端に
兆す夢の欠片を繋ぐ、薄く剝がれる温もりをほんのり焼き上げ幾重
にも重ね、古い響きの傍らに佇む小さな魂まで震える長い往還の、
もうここにあるのは難しいかと八月の熱した風の語り、後ろから呼
ばれる地謡の内耳骨へと波打つささやかな、動作を繰り返し始めか
らやり直すまったく違う関係の、キーンさんの台所の誰も知らぬ隠
味は悲しみを結わく、傍に置かれる微かな呟きを包み込む言葉の響
きを伝え、少しずつ現れてくる失われた時の狭間を歩む足取りの、
もうここにあるのは難しいかと八月の熱した風の語り、残された問
いの響きあうはるかに深い奥底の闇の濃さ、を見つめ最後の特別の
味付けするゆっくり滲みる時の、ごくわずかに残った実らない豆粒
を一粒ずつ分けあう、人たちのもう戻らぬキーンさんの台所の末期
の静謐に、立ち上がる数知れぬ人の列の長く連なる明日の光への、
秋麗の厨残るや豆ひとつ