『俳コレ』をゆるやかに鑑賞する(第3回)/堀田季何

今回の鑑賞は三人分にし、第4回と第5回を5人ずつにする。理由は簡単。疲れてしまったのだ。三者の句風がお互い余りにも違いすぎていて、それぞれ違った視点で鑑賞せねばならず、一人分(100句)読むごとに俳句鑑賞脳をリセットする羽目になり、普段の3倍も頭が疲れてしまったのだ(ちなみに、それぞれ100句の中から比較的に好みの10句を採りあげているため、評者が選んだ句を見ただけでは三者の句風の違いはそこまで目立たないだろう)。残りの10人は大丈夫だろうか。下手すれば5回で連載が終わらない気がする……くわばらくわばら。

【雪我狂流】

幸福だこんなに汗が出るなんて
冷蔵庫しめてプリンを揺しけり
背泳ぎに話しかけてる平泳
あーと言ふあ~と答へる扇風機
金持ちにぶつかる冬の交差点
昼寝にはじやまな天使の羽根であり
口中の葱より葱の飛び出しぬ
義士の日の東京タワーが立つてゐる
生臭き内側ありしチューリップ
穴と穴合へば一味や去年今年

機智の句もあれば、発見主体の句もあり、写生の句もあるが、いずれも作者が意識していると云う「世界は面白い」という認識に基づいている。世界の面白さを愚直に伝えようとしているのであり、作者自身面白がっているのだ。たまには、面白がり過ぎて自爆したり、作句意図がみえみえになってしまったり、写生が不十分で類想になってしまったり、発見が当たり前すれすれのグレーゾーンを彷徨ってしまったり、といった失敗もあるが、作者の成功句は人を心底幸せにしてくれる(「こんなに汗」なんか出なくても)。軽妙洒脱な味わいが今後更に深まるにつれて、更に多くの読者が幸せになることであろう。未来は明るい!(……という気になってしまう)

1句目、汗をかいている状態で何らかについての幸福を噛みしめているのではなく、汗をかいていることで幸福を感じている。評者は汗を殆どかかないし、汗が嫌いなので作中主体(たぶん作者自身)の心境は到底理解できないが、そんな評者にも不思議と幸福感が句から伝わってくる。2句目、冷蔵庫を閉めたらプリンの揺れは見えないはずなので、作中主体はあくまでも意図的に強く閉めてプリンの揺れている様子を想起しているのである。3句目、片方にしか「ぎ」が付いていない理由は定かでないが、省略の効いている写生句として面白い。4句目、よくある内容だが、「あー」と「あ~」の表記の違いが楽しめる。5句目、これは確かに発見。確率論からすれば、人の多い渋谷とかの交差点では富裕層に属する人間とほぼ確実にすれ違っているはずである。「冬」という季語に、作中主体の懐の寒さ、つまり作中主体自身は「金持ち」でないという情報が込められている。6句目、確かに邪魔だ。すぐそこに天使が寝ているようで(さすが作中主体が天使という設定ではないだろう)、天使が俗な存在に堕したことで機智が成功した。7句目、丸くすぼめた口、口と同心円状の丸い断面の葱、その中の同心円且つ飛び出ている葱、という三つの円がユニークな構図を為している。8句目、「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)のパロディーであろう。主君の為に死んで英霊化する、という共通点がある。しかし、諷刺詠だとして読まずとも、大石切腹跡や泉岳寺のある高輪界隈から義士の日に遠望する東京タワーの印象的な様は味わえれば足る。9句目、過去形になっているのが曲者。内側がもはや無い、と解釈すれば、花びらを剥いでしまったに違いなく、蘂か花粉の生臭さを嗅いだという句意になる。もはや内側が生臭くない、と解釈すれば、何かの変容がチューリップの内側に起きた、という句意になる。いずれにせよ、何気にエロチックである。10句目、一味が入っている筒の仕組み(穴と穴を合わせないと一味が出てこない)に一見言及しているようだが、「去年今年」という季語と合わさっている事で、色々な裏読みができる句に仕上がっている。

【斎藤朝比古】

囀や日蔭と日向隣り合ふ
金属を通つてきたる夏の水
動力は輪ゴム三本夏休
足の指開きて進む西瓜割
いなびかり森が大きくなつてゐる
鬼やんま頭運んできたりけり
いくたびも作る中心運動会
イエスゐるやうにラグビーボール置く
寒泳の髪乾くまで獣めき
コロッケの泳ぐ大鍋春隣

正統派と言うべきか、しっかりとした技巧を感じる。句風も「炎環」的というか、師の師である加藤楸邨的な人間探求姿勢、そして心語一如への志等が感じられる。句意も常に明快である。句によっては内容がやや瑣末であったり、写生がやや雑であったりするが、それは評者の視点による部分も多く、これといった失敗句は無い。つまり全体的に安定性を感じたのだが、『俳コレ』所収の俳人でそう思えたのは半数もいない。他に特徴としては、比喩と見立ての句が多いこと、省略の技術が洗練されていること、写生句でもたまに形而上のニュアンスを籠める事があること、男性的な素材や語彙の選択が挙げられよう。季語の選択はやや保守的であり、用法も常套的な面があるが、そういった面は作者の円熟とともに今後解決されてゆくであろう。更なる展開が楽しみである。

1句目、ありそうでなかった発見。囀りにも陰影が感じられるようだ。2句目、省略の見本例。複雑性は違うが、どこか「蛇口の構造に関する論考蛭泳ぐ」(小澤實)と通じる。3句目、これも省略の見本。夏休みの工作だろうが、具体的に何の動力か提示するかわりに「輪ゴム三本」と動力源を提示したのが技。4句目、「足の指開きて」の描写、よく観ている。5句目、「いなびかり」と「森が大きくなつてゐる」感覚とは因果関係がないはずだが、両者が取り合わせられることで説得力が生まれている、6句目、この認識は類想がなさそう。修辞的には「白魚の魚たること略しけり」(中原道夫)に近い。7句目、円を作る遊戯が多いと言っていないのが味噌。「中心」そのものが詠まれている事で人間社会の縮図が暗示されている。8句目、比喩の形をしているが実際は二物衝撃であろう。意外性が好い。9句目、夏の水泳でなく、寒泳というところが「獣」的なのだが、内容よりもK音で一句を仕立てているところがポイントだろう。10句目、これまた省略の美。油の中で揚げているとは書かれず、その分を「泳ぐ」という擬人化と鍋の「大」きさに当てている。

【岡野泰輔】

いちばんのきれいなときを蛇でいる
気が付くと人形を踊らせている
犬濡らすそしてふたたびまた秋が
日盛りを妻留守ならば李白くる
円盤の枯野わずかに浮き上がる
蝉穴と蝉穴以外を考える
芒原シャツと思想を交換す
その夏のダリアの前に父がいる
小鳥来るああその窓に意味はない
しどけなくデージー見せてそれから銃

少し前の前衛俳句を現代でも続けているようでもあり、殆どが有季定型でありながらも一般の伝統俳句を評価する手法では鑑賞できない。作者の句は、基本的に、句意がストレートな抒情句、意外性のある言葉を句に挿入する事で難解になっている句(解がないのかもしれない)、そして像を結ぶが句意の見えない句(一部の現代絵画のような味わい)、の3パターンに分かれるが、どのパターンにせよ、現代詩を読む感覚で読めば鑑賞は難しくない。ただ、現代絵画の問題に似て来るのだが、古典的な作品よりも評価基準がばらけてしまい、多分に読者の感性に左右される。しかし、読者の感性次第とはいえども、客観的に見えることもある。例えば、どのパターンであっても、作品の大半は淋しさが一種の裏テーマになっており、作者に詠まれる対象はひたすら孤独である。また、季語の本意への依存が少ないのも作者の特徴である。悪く言えば、季語が動く、季語が無くても成立する句が多い、という問題がある。良く言えば、季語に付きがちな手垢を引きずっていない。その辺をどう捉えるかは、やはり読者次第である。

1句目、ハレとケのバランス。2句目、無意識的な人への希求と意識的な人との疎外感。3句目、「ずぶぬれて犬ころ」(住宅顕信)に通じるが、独自の屈折がある。4句目、「李白」の意外感で勝負している。5句目、円盤のUFOではなく、円盤の「枯野」という捻りがポイント。6句目、Aと非A、つまり全体を考えている。7句目、シャツと思想が等価になる共通の尺度を想像させる。8句目、季語以外「南浦和のダリアを仮のあはれとす」(攝津幸彦)とは内容が異なるが、両者の抒情性は近い。9句目、窓とは、「その」とは、透明とは、意味とは……。10句目、連続した動作の写生でなく、デイジーと銃の二物衝撃。

<つづく>

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執筆者紹介

  • 堀田季何(ほった・きか)

「澤」・「吟遊」・「中部短歌」所属。第三回芝不器男俳句新人賞斎藤慎爾奨励賞、第二回石川啄木賞(短歌部門)。

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