俳句時評 第7回 外山一機

「俳句史」の困難 外山一機

 川名大が『俳句四季』で「現代俳句史」を連載している。一貫して俳句表現史の構築を志向してきた川名にはすでに『新興俳句表現史論攷』をはじめとする多くの重要な論考があるが、ここにおいてなお「史」を記述してやむことのない氏の仕事には「俳句」への尽忠のようなものさえうかがえる。同時に、この偉大な伴走者の一途な仕事ぶりを眺めながら、しかし、ふと現在において「俳句史」を記述することの困難を思ってしまうのは僕だけであろうか。

 すでに五四回を迎える氏の連載だが、今回(二〇一一年六月号)は「戦後の俳論(その一)―「第二芸術」論と、それへの反撃―」と題し、桑原武夫の「第二芸術」をとりあげている。川名は桑原の主張した内容を次の三つに分類する。

一、俳句は近代精神を表出できない第二芸術だ。二、俳人は作家として思想的社会的に無自覚で、安易な創作態度がある。三、俳句評価や俳壇の非文学的システム。一は俳句本質論にかかわる問題。二と三は俳人の意識や態度、俳壇システムにかかわる俳壇状況論。

 そして川名は桑原の言説の「俳句本質論」としての破綻を指摘する。

つまり、桑原は散文(小説)と韻文(俳句)との形式に由来する表現の独自性に盲いて、両者に量的に価値判断を下したのだ。したがって、「第二芸術」論は俳句本質論のみならず、俳句論としても根本から破綻した蛮勇だった。

 さらに川名は桑原が「第二芸術」論の初稿から加藤かけいの「言挙げぬ国や冬濤うちかへす」とそのコメントを合わせて九行削除したことについてふれ、「後にこの句が近代的批評性を内包した句(第一芸術)であることに気づき、削除することで論理的破綻を繕ったのである」とする。だが、そのうえで川名は「第二芸術」論の今日的意義について次のようにも述べている。

「第二芸術」論は破綻した俳句論として当初から勝負がついていた。では、空騒ぎの木霊ばかりを空しく響かせたものなのか。否。「思想的無自覚」「安易な創作態度」という俳人の死命を制する問題を今も俳人たちの胸に響かせる衝撃力を失っていない。つまり、「第二芸術」論の意味は「お前は真に時代の詩を書いているのか」という自らの内部の声に耳を澄ますところにしかない。

 現在を生きる俳句の作り手にとって大切なことは、「第二芸術」論とそれが提示する問題を自らのうちに抱え込むことだ。川名にとって「史」を編み発信していくことの意義はこのあたりにあろう。川名は近著『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房、二〇一一)でも「過去の表現史の高みなど知らなくても、句会や吟行という現在の場を楽しもうという馴れ合い的な雰囲気が生じたのは、残念なことである」と述べている。

 だが、「俳句史」とはもう少し多面的なものではあるまいか。たとえば能村登四郎は「第二芸術」論以後の状況について以下のように語ったことがあった。

一体花鳥諷詠などと言うものがまだあつたのか、という人があるかも知れない。それは一部をみて全部をはかろうとする愚見で、現在何十万あるか知らない俳句作者の過半数はこの花鳥諷詠又はその流れを引いた作者たちであることを忘れてはいけない。これらの人達には俳句が社会性になろうと無季へ志向しようと、まして造型論などというものがあることも知ろうともしない。花といえばすぐ春だと思い、月といえば秋のものと信じて疑わず、何らの迷いなく俳句をたのしんでいる人達である。江口榛一はこれを亡国的な忍従精神だと言い、小野十三郎は五・七・五を奴隷韻律だと言つたが、そんな事に一喜一憂するのはほんの一部の層だけで多くの人達には無縁の声だつたのである。

(「諷詠論―大衆詩としての俳句のために―」『俳句』(一九五七・二))

 「第二芸術」論にほとんど影響を受けなかった者、さらにいえば自分のうちに「史」を構築することなく無自覚に「俳句」にいそしむ者が多数を占める状況は、能村がこの文章を書いた当時とさほど変わるまい。だからこそ川名のような書き手が必要なのだともいえよう。しかし、少数の自覚的な表現者の一方で、「第二芸術」論以後を無自覚に生きてきた者たちもまた、川名の重視する「史」とは異質の「史」を展開してきたのではあるまいか。現在において「俳句史」を記述する困難は、表現上の新たな展開を見出しにくくなったことだけにその原因があるのではなく、近代以降の「俳句史」において、表現史的な「史」の推移と並行するように、いわば「非表現史的」な「史」をすでに十分すぎるほど僕らが抱え込んでいることにも関係していよう。そして、「非表現史的」な「史」とは決して「未表現史的」な「史」ではあるまい。

「非表現史的」な「史」を桑原のように「思想的社会的に無自覚で、安易な創作態度」を助長するものとして難じることはたやすい。また、このような史観の構築が表現者にとってどのように益するのかという疑問もあろう。むろん、このような「史」をふまえたところで新しい俳句表現など生まれまい。なぜなら「非表現史的」な「史」とは川名のいう「過去の表現史の高み」やそうした表現を生み出すシステムの検証を志向するものではないからだ。僕は俳句表現史としての「俳句史」の構築や、書き手として自ら「史」に連なろうとする書き手の意識を否定しようとは思わない。けれども、むしろこの「非表現史的」な「史」から立ち上がってくる「俳句」なるものの存在に目を凝らすことも必要なのではあるまいか。

 おりしも、「第54回群像新人文学賞」の評論当選作として、彌榮浩樹の「1%の俳句-一挙性・露呈性・写生」が選出された。誤解のないように言えば、僕は川名と彌榮の仕事とを同一視するつもりはない。そのうえであえて言うならば、もしも彌榮のように言語表現として優れた「1%の俳句」を愛することが残り99%の俳句を愛せなくなることへと繋がるのであるならば、その論理はどこかで俳句の本質を見誤ってはいないだろうか。すくなくとも、99%の俳句(それは彌榮流にいえば「お~いお茶」のパッケージに貼り付けられているような「一般大衆が趣味として行う膨大な営為」の結果としての句のことであるが)とは、「1%の俳句」になれない句ではなくて、むしろ「1%の俳句」になることを志向しない営為の結果としての句であろう。当たり前のことだが、僕らは必ずしも俳句表現史に足跡を残すためだけに「俳句」に携わっているわけではあるまい。というよりも、「俳句」そのものが、「俳句」という詩形式にかかわる者をそんなに「純粋」な地点にとどまらせておいてくれるほど単純なものではあるまい。実際僕らにとって「俳句」にかかわるという行為は、「お~いお茶」の句を「俳句」として認めるような社会を否応なしに生きることや、かつて飯島耕一が批判したような俗っぽいグラビアの掲載された俳句誌を毎月目にすることと不可分のものであろう。もちろん、このような状況を批判することはたしかに重要である。僕もそのような批判のすべてを否定しようとは思わない。ただ(川名の入念な俳句論は別としても)、とりわけ今回の彌榮の文章にみられる硬直化した史観に基づく批判の場合には、俳句表現史だけでは汲み取れないはずの句や営為の価値を一方的に見限ったひとり相撲になっていることがあるのではないか。そして俳句表現史のもつ危うさは、あるいはこんなところに潜んではいまいか。

 翻って、詩の「高さ」とは何であろう。それは表現としての「高さ」のみを指すものではあるまい。「お~いお茶」の句にも「高さ」はある。それは表現としての「高さ」ではなく、表現するという行為の尊さの謂であろう。むろんその尊さは絶対的なものではないけれども、たとえば「お~いお茶」の句についてそれを子規の句よりも表現として劣ることをもって批判の対象とするのは、すでに「俳句」や「俳句」に携わる人間のたたずまいを根本のところで見誤っているように思われる。少なくとも、「いま」「ここ」において「俳句」を負う僕らの命題は、そんな狭小な地点から見えてくるものではないのである。

執筆者紹介

外山一機(とやま・かずき)

昭和五八年一〇月群馬県生まれ。

平成一二年から二年間、上毛新聞の「ジュニア俳壇」(鈴木伸一、林桂共選)に投句。平成一六年から同人誌『鬣TATEGAMI』同人。

共著に『新撰21』(邑書林)。

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One Response to “俳句時評 第7回 外山一機”


  1. 現代俳句協会現代俳句協会青年部 シンポシオンⅣ ポスト造型論 : spica - 俳句ウェブマガジン -
    on 6月 18th, 2011
    @

    […] 山氏自身が詩客の時評(俳句史の困難 外山一機)で […]

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