俳句時評 第13回 山田耕司

「わたし」という方法

あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです      宮沢賢治

大震災以降の俳句評論で、強く共感したのが、関悦史の評論、週刊俳句第221号「週刊俳句時第38回 その後の仁義なき震災俳句」

大震災での体験を内面化していく過程と表現活動との臨界面を観察した上で、高橋修宏の近刊における鈴木六林男の方法の考察と併せて、関はこのように結ぶ。

表象の臨界に直面したとき、それを表現するには、取り込み、内面化するという過程をくぐり抜けなければならず、その過程は体験・外界を変質させるだけではなく、同時に作者にもはねかえって或る作用を及ぼすという事態、その一例がここに見られるように思う。

日常言語そのままで句に於いて人を励ましたり、復興を誓ったりしても、その心根は心根として、句の表現としてはおおむね虚しいものとなる。

表象の臨界において、なお表現すること。

それは外界や体験を、認識の深度を上げて再構築していくということだけではなく、おそらくは表現する主体の側にも或る「変身」を強いてくるものなのだ。

大震災から4ヶ月あまり。

この時点で、関悦史の上記の文を得たことは、俳句表現史において記憶されるべきであろう。

関悦史は、作者の認識と表現行為とのステージを表示したが、それはそのまま、読者が作品に向かい合うときの可能性にも置き換えられよう。

俳句形式において、作者でいることもさることながら、読者でいることはそう簡単なことではない。

発表されている句を用いて「作者の言いたかったであろうこと」を「解説」してみたり、そこから派生する自らの「感想」をのべたり、作品を並べておいて作者の人間像を通史的に推論してみたり、と、そういう行為をする人のことは「読者」というし、「あなたは何をしているのですか」ときけば「俳句を読んでいるのです」と答えるであろうけれど、それが「俳句を通じて何かをわかりあおうとするコミュニケーション」を目指しているとなると、表現の表現たるところをちょいとまたいでいってしまう受信者という方向に読者が流れていってしまう気がしてならないのだがいかがであろうか。

表現を表現として受け止めたうえで「作者の現在」ではなく「作品の現在」を読み込もうとするタイプの読者でいることはムズカシイ。

その読者のヨミを受け止める更なる読者が少ないこと、そうした読者でいることによって作者である自分が苦しくなること、そして、他者とコミュニケーションがとれる手応えがないこと、まず「イイ人」に見えないこと、そんな理由をもって俳句作品の読者でいることはムズカシくなりがちなのである。

俳句は所詮「判じ物」ということで、作品を特定の正解がある謎のように扱う視点があるとして、その謎がムズカシいから俳句の読者でいるのがムズカシい、といいたいわけでもない。俳句は「判じ物」とするのはかなり無邪気な考え方であり、そんな考え方をまともに受け入れたら俳句を読むことの創造性を放棄してしまいかねない。第一、正解を散文で言い尽くせるならば、俳句なんか書く必要はないのである。

俳句における近代とは、リアリズムへの傾注やら自我の表出やらと作者サイドの特徴をあげつらうことで説明されてきたきらいはあるが、とりもなおさず、それは、読者をどのように想定するかの歴史でもあったことを忘れてはならないだろう。

共同体としての「われわれ」を限定し、そこにおける約束ごと(コード)も共有していた俳諧の連歌における「読者」。その書き、かつ読む行為を解体する作業の過程は、当然、「われわれ」の解体でもあり、約束ごとの破壊も含む検証だったのではないだろうか。

つまり、作者である自己が「われわれ」であることを棄て「わたし」であることを望むにあたり、いきおい、読者である自己も「われわれ」であることを罷め「わたし」としてのヨミを志すことになるのであった、と、まあ、ミチスジは理屈で示すことはできよう。

個々の内面の差異などは、俳諧の連歌における「われわれ」にとっては共同作業のジャマ。

返す刀で、むしろそれを重んじることで、「われわれ」からの脱出をはかる、それが近代以降の読者の姿なのだとしたら、近代以降の読者とは「表象の臨界において、なお表現すること」を見誤ったまま進んできてしまったのではないかと思われる。

あくまで、作者と読者の間には、個の内面が如何なるモノであるかではなく、表現がその一回性においていかに面白いか、という緊張関係があるべきではないかと思うのだが、これがメンドウくさくてシンドイ(ちなみに個の内実を作者と読者に分けて論じる必要があるかないかという問いは、面白いが一般化することもないだろう。その覚悟の持ち方が個々の姿勢をもたらすのであるから)。

メンドウくさくてシンドイことをあえて避けない人もいて、俳句形式において、そういう人たちは特に群れる必要もないはずなのだが、仮想敵として「前衛」やら、あるいは「俳壇」やらを挙げなければならないのは、自らの方法を信じきれていないからなのか。

先述の高橋修宏の近刊「真昼の花火 現代俳句論集」(草子舎)。

巻頭の「<現在>の、沖へ」(初出 白燕 410号 2006年10月)という文章より。

 なぜ、いま、自己表現として俳句を書くのか。なぜ、それが「不自由」な定型詩であるのか。このような問いは、不可避であると共に、そのまま俳句の<現在>における難関=アポリアであることは確かだ。しかし、それを問いつづけることを避けて、<現在>の俳句が「より強固な言語空間を現出させる契機」となりうることは、ついにありえないであろうし、俳人個々の表現者としての本質的な差異を語ってみせることなどできないはずである。
 このようなギャップのはらむ問いが見過ごされてゆくとき、俳句形式があたかも無限の可能性を抱いているかのような無邪気なオプティミズムを垂れ流していく一方で、所詮俳句は五七五と季語さえあればいくらでも作り出せる「芸」だという、あいもかわらぬ通俗的な回帰主義を呼び寄せていくことになる。そのどちらにも、今日、俳句を書くことに付きまとう滑稽さやもどかしさに対する自意識など微塵もない。あたかも、亡び前のように妙に明るすぎるのだ。
 そして、このような自らの内部に潜む矛盾を直視することなく、俳人の互いに差異をあらわにすることを回避したその地点に、今日の俳句表現をめぐる、もっとも深刻な「コミュニケーションの不可能性」の露頭を、私たちは見出すことができるだろう。それは、いま、俳句をめぐる表面的な繁栄と活況のもとで、波紋を描くことのない眠りこんだ沼のように広がっている。俳人個々の差異を蔽いつくすディスコミュニケーションという真昼の闇――。それが、まさしく俳句表現をめぐる<現在>のシンボリックな光景であるように思える。
 個々各々の異なった顔つきを均質化し、一般化させ、流通させてしまおうとする俳壇という村共同体の黙契。その規範的とも言える力学を見極め、個々のディスタンスをはかりながら、したたかに囲繞から抜け出してみること。そして、個々各々の表現者としての差異をスローガンやイデオロギーもどきにからめとられることなく語りはじめること。さらに、自らの内部に潜む矛盾そのものを櫂として、<現在>というディスコミュニケーションの沖へ漕ぎ出すこと。それが、いま、俳句を書く者に強く求められているのではないだろうか。

かっこいいが、もどかしい。

この文章の根底には自己表現する作家の「差異」というものがあらかじめ重視されているのだが、その差異が個々の人間性に基づくロマンティシズムに足場を組んでいるように思えてしまう。また、俳壇を相対化することで逆説的にコミュニケーションを求めているようにも受け取れてしまう。

<俳壇>というものがいかなる実態であれ、それを相対化する必要もないであろう著者がそうしてしまうのは、表現以前に自己の内面というものを重んじ、その重みを評価しあいたいという願望が背景にあるのだろうか。

よくわからない。

こうした相対化と自らの立ち位置の宣言によって、どれほど俳句形式への認識が改まるような作品が生れ出てくるのか、それもよくわからない。表現そのものに向かい合う読者でありうるのか、それもまた。

<作家の現在>ではなく<作品の現在>を感じさせる表現行為、ふたつ。

どちらも、個人的な営みであり、誰かやら何かの団体を相対化しているわけでもなく、また自分の内面をかけがえがないものとして保護しようとする気配もない。

あくまで、自己と表現との対峙であり、更に言えば、読者との「人間性に基づく交わり」など期待していない様子さえ漂う。

「わたし」という方法において、作者であることと読者であることの自律をほどこしている、その面白さ、潔さ。

その「方法」が反映されている作品、その新しさ、頼もしさ。

ともに紙媒体ではなく、電子情報媒体を、「わたし」の船にしている。

メディア環境の多様化によって「わたし」と「わたし」が出逢う契機が変化し、その変化は継続している。

 [No.001] 句集「霧の倫理」 田島健一 ※ 「霧の倫理」は一定のダウンロード件数に達したため配布終了
[No.002] 句集「架空のすべて」 田島健一
[No.003] 句集「壺屋」 田島健一
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かねこねこ(金原まさ子)のブログ  現在進行形の表現活動、更新中。

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