俳句時評 第15回 外山一機

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執着のベクトル―移民の俳句について―

 横浜に「つぐみ」という超結社的な俳句集団がある。ここに、津野丘陽という俳人がいる。氏は20代のころブラジルに移り住み、そこで俳句を学んだという経歴の持ち主である。ブラジルへの移民船の魁である笠戸丸がブラジルに到着したのは今から約100年前。以来、ブラジルは断続的に日本からの移民を受け入れてきた。ブラジルに渡った者のなかにはもともと俳句や短歌を嗜んでいた者もおり、また有力者にも文学に理解のある者がいた。そして彼らを中心に各地にサークルが生まれていくのである。こうした活動は太平洋戦争期の日本語弾圧の煽りを受けたものの、終戦直後の混乱期のなかで息を吹きかえし、1950年代には俳句ブームともいえるような広がりを見せたのであった(この辺りの事情は長谷川清水「コロニア俳句の推移」(『萬象』1955・1)に詳しい)。

 さて、この津野だが、氏は戦後にブラジルへと渡ったようである。日本では雇用機会の確保策の一つとして1952年にブラジルへの移民の渡航が再開されるが、これ以後の移民を「新移民」と呼ぶ。津野はいわゆる「新移民」の一人であったのだろう。津野はブラジルでの俳句体験を記した短文をいくつも「つぐみ」に寄せているが、そこには興味深い点がいくつか見受けられる。

 私が俳句を始めたのは1962(昭和37)年のことである。当時私は南米最大の農業組合で、日本人が主体の「コチア農業産業組合」の信用部に勤務していた。その信用部の職員が集まって「他人さまのお金を毎日扱っている索漠とした日常に何か潤いを持たせたい。俳句でもやろうか」と、俳句のことは何も知らない者たちで俳句を始めることとなった。(略)
 本格的に俳句を学んでいくには指導者が必要だということから、吟社「同素体」の代表で「曲水」(渡辺水巴)の同人渡部南仙子氏にお願いすることにした。
 その後、職場から3名、「同素体」から2名が参加し、総勢10名となった。句会は兼題5句、雑詠5句の10句出し。句稿や句会報はオフィスのアルコール式コピー機で印刷した。(津野丘陽「「くぬぎ吟社」結成」『つぐみ』2011・3)

 「コチア農業産業組合」とは、1927年に設立された「コチア・バタタ生産者産業組合」が改称されたもので、津野がいうようにブラジル屈指の巨大農協である。渡部南仙子はブラジル俳句界における重要人物の一人。ブラジル移民社会において重要な役割を果たした俳人にはほかに佐藤念腹がいる。念腹は虚子門の俳人であったが、俳句を広める目的でブラジル移住を決意した人物であった。ブラジルに移住した後、俳句指導を行うほか、邦字新聞の俳句欄選者を担当したり俳句雑誌『木陰』を創刊したりと精力的に活動した。「ブラジル移民の俳諧にもっとも強い影響力を持った人物であり、ブラジルでホトトギス派の俳句が勢力を持ったのは念腹の力であったといってよい」(池田重二『サンパウロ市及び近郊邦人発展史』日伯文化出版社、1954)とも評されている。この『木蔭』に「対抗している唯一の俳誌」と目されていたのが1949創刊の『青空』であった(池田前掲書)。そして『青空』の編集にあたっていたのが南仙子だったのである。南仙子はほかに「日伯毎日新聞」の俳句欄の選者なども行っていた。

 すでにブラジル移民の俳句については増田秀一や中村茂生などによる研究がある。ただし注目度の低さのためか、移民の俳句についてはいまだ明らかでないことが多い。とりわけ、日系移民社会で実際に俳句に携わっていた者の証言へのアクセスはなかなか困難である。そのようななか、この津野の文章が貴重な資料の一つであることは間違いない。そして、こうした証言と同時代の記述とを照らし合わせることでブラジル日系社会における俳句の姿がよりはっきりと見えてくるようである。

 俳句界になると、さすがに人口は多く、古くより欠かさず月例句会を催し、点採り(マ
マ)の和やかなサロン気分にひたっている。(吉本青夢「モジ文学界の推移」『コロニア文学』1966・12)

 また伝統的な短詩型文学も高い水準に達し、日本の歌壇や俳壇に新風を吹き込んでいるようである。ところが散文学の方はさしたる展開を見せず低迷を続けているのはどういう訳であろうか。
 次のような「申し訳」がある。短詩型文学は強固な同人組織と発表機関があり、切磋琢磨の場があるに反し、散文学にはそれがなかったというのである。(鈴木悌一「創刊のことば」『コロニア文学』1966・5)

 俳句の場合、すでに戦前から各地にサークルが組織され句会が行われていたように、組織化の手法が確立されており、また作り手の数も多く、その意味で人気のある表現形式であったようである。津野の「俳句でもやろうか」といういかにもさりげない書きぶりの背後には実はこのような地盤の存在があったはずである。

 ところで、こうした移民社会で行われる句会は日本語の俳句を扱うものであった。だがブラジルで日本語だけに携わる時間と空間とを他者と共有するという行為にはどこか不思議な印象がある。それは、津野の「俳句でもやろうか」という書きぶりがいかにも自然であるだけに、いっそう奇妙なのである。ブラジルの日系社会での日本語の流通の程度をうかがい知ることのできる資料の一つに『雇用農実態調査報告書(コチア青年移住者実態調査)』(国際協力事業団、1977)がある(コチア青年とはコチア産業組合が実施した日本移民招致に応じた者を指す言葉)。これは1955年以降導入されたコチア青年移住者のうち、産業開発青年隊を除く2341件を対象として行ったアンケート調査である。それによれば家庭内での使用言語は「ブラジル語」10%、「なるべくブラジル語」7%、「日本語」14%、「なるべく日本語」33%、「両方」36%であった(回答数は482)。調査者はこの結果について「家庭内で日本語を使用している率は、予想より高率であった」と述べている。コチア青年は基本的に一世であり「ブラジル語」が苦手であったことは容易に推測できるが、にもかかわらず実際には調査結果以上に「ブラジル語」を使用しているというイメージがあったのだろう。あるいは、彼らは苦手であっても「ブラジル語」を積極的に使用しなければならない立場にあったのかもしれない。たとえばこの調査には「あなたはブラジルに永住しますか」というものもあり、こちらの結果は、「もう既に帰化した」19.9%、「永住する」76.5%、「帰国する」0.4%、「転住する」0.6%、「不明」2.6%となっている。つまりコチア青年のほとんどはブラジルで一生をおくるつもりでいたのであり、したがって彼らは否応なしに(あるいは積極的に)「ブラジル語」を摂取し活用する生活をしていたのだった。

 これは最初期の移民の意識とは大きく異なるものだ。もっとも戦前の移民(彼らは「旧移民」と呼ばれる)のうち特に最初期にブラジルに渡った者には、永住ではなくむしろ出稼ぎのようなつもりで移民船に乗りこみ、帰国の希望をかなえることができないままブラジルに住み続けざるをえない者が多かったから、「日本」への執着やアイデンティティのありようは「新移民」のそれとはおのずから異なるものであったろう。たとえば沖縄生まれの芥川賞作家大城立裕の小説に、明治41年に沖縄からブラジルへ移り住んだ夫婦を描いた「ノロエステ鉄道」という作品がある。これは、ブラジルへ渡ってから70年後、すでに90歳近くなった女性による回想記という体裁で書かれた作品であるが、そのなかにこんな一節がある。

 もう日本へ帰ることはありますまい。門を入ると、すぐ内側にアカバナーの花が咲いているのを御覧になりましたか。日本語では仏桑花といいますね。沖縄ではアカバナーといいます。ブラジル語で何というか分りません。(大城立裕「ノロエステ鉄道」『ノロエステ鉄道』文藝春秋、1989)

 ブラジルにおける初期の歳時記としては『ブラジル季寄せ』(梶本北民編、日伯毎日新聞社、1981)があるが、その「仏桑花」の項では、「イビスクス」という別称が紹介されている(同書の「はしがき」では「イビスコ」とも書いているが、いずれも「仏桑花」のブラジルでの呼び名を指していると思われる)。また、2002年刊行の『ブラジル歳時記』(佐藤牛童子編、日毎叢書)でも「仏桑花」の項に「仏桑華」と「ハイビスカス」という別称が見られる。

 『ブラジル季寄せ』の編者梶本北民によれば、仏桑花は「日頃身近なサンパウロ市付近の植物」のひとつであるという。「ノロエステ鉄道」の語り手である老婆がいくらサンパウロ市から離れた「カンポグランデ」に住んでいるとはいえ、はたして「ブラジル語で何というか分りません」という言葉をそのまま受け取ってよいものかどうか。むしろ「日本語では仏桑花といいますね。沖縄ではアカバナーといいます。ブラジル語で何というか分りません」という言葉のなかに、自らの立ち位置を表明し確保しようとする、きわめて戦略的な老婆の意図がうかがえはしないだろうか。僕には、この奇妙に歪んだ老婆の語りに耳を澄ませることで、ブラジルで日本語をつかうという行為のもつ価値のありようが見えてくるように思われてならない。「日本語」や「沖縄語」に執着する老婆の往生際の悪さは、老婆による、ある種の「日本」への執着(より正確にいえば「沖縄」への執着)の意思表示ではなかったか。

 この老婆ほどではないにせよ、ブラジルで日本語をつかうということ、さらには俳句に携わるということは、実は相当に奇妙な事態ではあるまいか。だから「俳句でもやろうか」といういかにもさりげない津和の記述を、僕はできるだけ慎重に考える必要があると思う。なぜならば、僕らがこのあまりにさりげない言葉をついに客体化できないまま当たり前のものとして通過してしまうとき、そこには僕らがいつのまにか身につけてしまっている「俳句」についての認識の枠組みや、僕らが自らの依代を求めるときのほとんど無意識的といっていい執着のベクトルの様相が無残なかたちで露呈されているように思われるからだ。俳句の国際化が叫ばれて久しい。しかしときにHaiku論があまりに明るく語られてきたのは何故だろう。それらは本来あるはずの捻じれや歪みを忘却してはいなかったか。翻ってそれらは、論者自身の認識の甘さを示してはいなかっただろうか。

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