俳句時評 第19回 外山一機

逃鼠の弁

俳句表現史においてはついに東日本大震災でさえ大きな主題となりえなかった、といってしまうのは性急に過ぎるのだろうか。僕にとってここ数か月間の俳句雑誌の表紙におどる震災関連の言葉ほどそらぞらしいものはなく、むしろ大きな社会的事件が俳句に与える震度の小ささのほうが際立ったように思われた。何より不思議だったのは、震災俳句と呼ばれるものを読む限り、多くの俳人が、彼らがすでに無意識裡に自ら規定しているらしい俳句形式なるものによって現実を写し取るという方法を何の疑いもなく用いているにすぎず、表現者として本来あるべきはずの「形式」との格闘や葛藤を忘却しているように思われたことだ。結局震災俳句は誰もが予定していた通りの俳句表現を生み出したにすぎず、それはたしかに道徳的ではあったけれども、その多くは俳句形式への疑いをさしはさむこともないまま流れ去っていったのであった。そのあとにいったい何が残るというのか。「その句の「力」によってたとえ一瞬でも一人でも救われた人がいるならばそれでよい」と考えるのはたぶんとても正しい。けれど、もしも表現者としてそんな純粋な思いしか抱いていないのであれば、それは自らの表現行為が必然的に抱え込んでいるはずの悪を忘却していよう。そもそも、震災をテーマにした俳句を詠むなどという行為は本来相当に非道徳的なものであったはずだ。いつから震災俳句は「震災で被害を受けた人々やその周辺の人々を励ます俳句」などというものにすり替えられてしまったのだろう。すくなくとも震災後に俳句と対峙するうえで大切なことがあったとしたら、それは俳句によって世の中を救うとか震災とは関係なく俳句をつくるとかいったことではなく、震災後に俳句を詠んだらこうならざるをえないという、いわば作家としての必然を自らのうちにたちあげることであったはずだ。その結果俳句表現が何も変わらなかったというのであればやむをえないし、少なくともいまのところ何も変わっていないようである。

見方を変えれば、もはや震災が俳句表現を変えてしまえるような時代状況ではなくなったということだろう。昨今主題の喪失ということが言われているけれども、僕がここ数か月間感じている空しさの淵源は、ここぞとばかりに震災を主題としてまつりあげようとする行為の馬鹿馬鹿しさにあったのかもしれない。その意味でこの七月に刊行された山口優夢の句集『残像』は興味深いものであった。結論から言えば、山口は俳句形式を次のステージへと押し上げるようなタイプの俳人ではないが、『残像』はさしあたり二〇一〇年代の句集として、いまの僕たちの気分を最も率直に俳句作品として結晶させている。いったい、『残像』に書きとめられたあたりさわりのない幸福や不幸は何なのだろう。そこには切実な主題も主題を喪失した者の慨嘆もない。

戦争の次は花見のニュースなり
野遊びのつづきのやうに結婚す
ビルは更地に更地はビルに白日傘
ちちははの喧嘩を聞かむきりぎりす
卒業や二人で運ぶ洗濯機
わが影にアイスクリームこぼれをり

空しさを感じるほど低空で安定したままの生活感覚から発する手軽な抒情はちょうど、平成不況のはじまった頃にデビューしたMr.Childrenの歌詞とどこか似ている。

街灯が二秒後の未来を照らし オートバイが走る
等間隔で置かれた 闇を超える快楽に
又少しスピードを上げて
もう一つ次の未来へ
(Mr.Children「ロードムービー」)

闇も未来もいまや生のガジェットにすぎない。この生の手軽さは、むろん戦後派の感覚とは相当に異なるものであって、むしろ戦後派の後に続く世代が詠いあげた「手頃な」生の感覚と地続きのものであろう。そして僕たちのこのそらぞらしい生のありかたを突き詰めていくとき、もはや僕らはそのリアリティを身体感覚に依拠するほかにないらしいことに気がつく。

台風や薬缶に頭蓋ほどの闇
目のふちが世界のふちや花粉症
心臓はひかりを知らず雪解川
月冴えて顔のさいはてには耳が
 

だが、そのリアリティさえ諦めなければならなくなったときがきたら、それでも僕たちは俳句でなにがしかを書きとめることができるのだろうか。たとえば僕は山口の句に河原枇杷男ほどの凄惨な「闇」を感じることができないが、それは両者の作家性の違いにのみ収斂されるものではなく、山口と河原の世代の相違が導き出した必然なのかもしれない。

僕の句は故郷のどっしりとした景色も、悲惨な戦争体験も、伝統を重んじる姿勢も、芸術家の破綻した私生活もない。ただ平成不況と言われるどうにも曇り空が続くような世相の中で、特別貧しくもなく豊かでもなく、ぬくぬくと生きていたその景色があるだけだ。そんな僕の軽い言葉にどんな意味があるのか。

「あとがき」で山口はこのようにいう。ならば生の抱え込んでいる「闇」に目を凝らすことの行為としての重みが両者において異なるのは当然であろう。そして僕はこうした「手軽な」生の極北に、僕たちにはどうせ何も見えないのだという諦念さえ予感するのだが、どうやらこの点において山口は僕と決定的に異なるようだ。

でも僕は、そのときそのときで何かから逃げずに戦ってきた、戦って句を作ってきたと思う。それは、何かをなつかしむような句を作ってきたのではないということだ。その自負があるから、社会に出る前の自分の句をこうして皆様の前にさらしておこうと思う。

 

同じ「あとがき」でこう言い放つこともできる山口の強さは何なのだろう。演劇的な身振りを伴わなければとても僕には語れないような言葉を山口はわけもなく書きつけている。とりわけ僕は「何かをなつかしむような句を作ってきたのではない」という言葉に自分でも意外なほど激しい違和感を覚えたのであった。僕にとって俳句を詠むということは、どうにも詠いようのない状況の中でいま・ここを詠いつづけることの不可能を不可能として甘受することからはじまる行為の謂であったからだ。僕は徹底的に弱いことで「僕」であったのだ。山口は、おそらく彼が物心ついたころから緩く緩く続いている絶望的な状況のなかで、それでも俳句を詠みつづける奇妙な強さをもっているようだ。

思えば「残像」というタイトルそのものがすでに示唆的なのであった。僕たちが目にすることができるのは残像であって本体そのものではない。いや、それは山口の意に反するだろうか。なぜなら彼は次のように詠んでいるのだから。

 あじさゐはすべて残像ではないか

「残像である」と言い切らないところに山口の強さの本領がある。山口が俳句形式との本質的な戦いにまで進むのか、「爽やかに」俳句形式の恩寵を受けた俳人となるのか、僕は知らない。いまわかっていることは、どうやら僕は山口と相当に異なる地点でアポリアに突き当たったままどうにもぐずぐずしており、僕自身の自負はたぶんそのあたりにあるということだけだ。

作者紹介

昭和五八年生まれ。平成一二年から上毛新聞の「ジュニア俳壇」(鈴木伸一、林桂共選)に投句。平成一六年から『鬣TATEGAMI』同人。共著に『新撰21』(邑書林)。平成二三年、巻民代と俳句ユニット「トヤマキ」結成(http://toyamaki.blogspot.com/)。ブログHaiku New Generation(http://haikunewgeneration.blogspot.com/)。

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