俳句時評 第23回 外山一機

揺らぎ、傷む。

先頃、今泉恂之介の『子規は何を葬ったのか 空白の俳句史百年』(新潮選書)が刊行された。本書は主として一茶以降子規以前の俳句について論じたものである。本書の目的は、この期間の俳句の復権ということになろうか。

江戸時代後期の天保時代(一八三〇年~)から明治二十五年(一八九二年)ごろまで、すなわち一茶以後、子規の改革に至るまでの俳句は、「堕落し、救いようのない状態にあった」と多くの書物が書いている。それが本当かどうかは別にして、権威ある文学書の類が“口をそろえて”そのように書いているのだ。読者は疑いもなく信じていたはずである。私もその一人であった。

俳句史について巷間に流布しているこのような見方への疑問から書き起こされ、本書は三森幹雄や穂積永機などいわゆる「旧派」の俳人や井上井月、さらには名もない人々の句の掘り起しへと続いていく。それらは子規の俳句革新以後にあまり顧みられることなくむしろ貶められさえしてきた句であった。

私が本書の取材・執筆中にしばしば考えたのが、一般の俳句愛好家のことであった。一人の宗匠の下に何百人というアマチュア俳人がいたはずである。穂積永機には千人の弟子がいた。三森幹雄ともなると明倫講社の会員数は最終的に一万人になったと言われる。これらの人々の中にも、現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句を作っていた人がいるのではないだろうか。

今泉の主張は、たとえばこういうところに現れている。それは端的に言えば、子規以降顧みられることはなかった句の中にも「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」があるのだ、ということだ。したがって今泉が復権を目指す俳句もこの基準に則ったものとなる。この「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」とは何だろうか。たとえば今泉は穂積永機の「吼えやみて流るる牛や秋の川」をとりあげ、次のように述べている。

この句に駄じゃれ、小利口、訓戒調など月並調の特徴を見出すことが出来るだろうか。(略)句全体の雰囲気は低俗でもないし、堕落しているなどとはとても言えない。むしろリアルであり、子規の唱えた写生の句に属するのではないだろうか。

今泉のいう「現代人の鑑賞に十分堪え得る俳句」とは、ごく大雑把にいえば「月並調」ではない俳句ということになろう。いわば本書は子規が葬った「月並調」ではない俳句の復権をめざした一書なのである。しかしここに疑問が残る。むしろ、「月並調」こそ復権が必要なのではなかったのか。「月並調」を低俗だとか堕落していると考えること自体を、そろそろ見直してもよいのではなかったのだろうか。そもそも「月並調」はなぜいけないのか。それが訓戒調であったり、俗受けを狙っていたりして、「文学」ではないからだろうか。しかし「文学」とは何か。今泉は「月並調とは大衆文芸の手法」と述べているが、「大衆文芸」たる「月並調」の価値について次のように述べている。

俳句が今日まで延々と隆盛を保ってきた裏には、一般の人々の広範な支持が欠かせなかった。千代女の「朝顔に釣瓶取られて」、蓼太の「三日見ぬ間の」のように、その俗っぽさによって世間に知られ、好まれてきた句は少なくない。一般の人々がこれらの句によって俳句の面白さやリズムを知り、俳句を鑑賞し、自分でも句作を試みてきた。そういう大きな潮流が底辺にあって、俳句の人気は今日まで保たれている。
しかし世に喧伝されるような俳句は、とかく芸術性に欠けがちである。俗受けを狙うと、文学的な価値とは逆方向に進み、嫌味が生まれてしまう。俳句には放っておくと易きにつく傾向があり、誰かがいつかその流れを変えないと、単なる遊びに陥っていく。言ってみれば純文学と大衆文学のようなものだ。世の中の小説が純文学ばかりになったら困るし、大衆文学だけになってもまずい。子規はその辺のことを、あまり深く考えていなかったのではないだろうか。

このように述べながら、しかし今泉自身は「月並調」の俳句を「現代人の鑑賞に堪え得る俳句」ではないものとして葬っていく。そしてその選別の根本にあるのが「俳句」を「言ってみれば純文学と大衆文学のようなもの」に二分するという思考なのである。本書は一般向けに書かれたものであり、それゆえ用語の使用に厳密さを求めるのはあるいはお門違いかもしれない。それにしてもこの認識はあまりに粗雑ではなかろうか。とりわけ最後の一文は子規が俳句革新を行った時代状況を考えるならば少し酷ないいかたであるように思われる。「月並調」をあっさりと否定してしまう論理はこうした「文学」なるものについての認識の甘さに端を発しているのではなかろうか。そもそも、本書が子規の俳句革新によって切り捨てられてしまった俳句の復権を目指すものであるのならば、子規の俳句革新以後に僕らが身につけた評価基準こそ疑うべきであった。

いってみれば、本書にとりあげられているのは子規以後に生きる今泉が子規の俳句革新によってもたらされた価値判断を適用することによって拾い上げてきた句なのであった。もちろん、この仕事には今泉の志した通りいまだ知られざる俳句の復権という大きな意味があった。けれどそれは決して今泉の持つ「俳句」観を揺るがすようなものではなかったのではあるまいか。

誰かが俳句史を書くとき、そこには各自の史観が介在する。重要なのはその「史」への厳しい検証と更新の作業だ。これを怠ったとき、俳句史のみならず俳句そのものも硬直化する。なぜならば、俳人における俳句の創造とは各自の内に形成された俳句史に基づいて行われるものであるはずだからである。

たとえば先日の『ユリイカ』の特集「現代俳句の新しい波」に掲載された千野帽子の「二十分で誤解できる現代俳句」にしても、「俳句史」や「俳壇」から距離を置いているようにふるまう「俳人」による俳句史であった(千野がいくら「俳句の世界の外側にいる者」であると自己規定してみせたところで、千野だけがそんな安全な場所にいるはずがない。すくなくとも千野の俳句は自らの俳句史観の形成過程においておのずと生まれたものであると考えるのが常識的な理解であろう)。もっとも、いみじくも同特集に参加している高柳克弘が若手俳人における季語の「フラット化」を指摘したように、季語や俳句表現の持つ「史」をふまえることに必然性を感じなくなりつつあるのが僕らなのかもしれない。しかしそれは俳句史を知らなくてよいということとは違う。大切なのは自らの俳句史をそれぞれが自らの内に構築しつつ、そのうえでどのようにふるまうかということだ。

そして俳句史やそこから発する種々の困難は各自の問題として切り結ばれるべきものであり、そういう場所から発せられる言葉にこそ誠実さがある。ひとつの俳句史(そして俳句批評)は他者へ向けて発信されると同時に自らへも跳ね返ってくるものであり、ついに自らを傷めつけることのない俳句史など空しいだけではないだろうか。

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