俳句時評 第24回 湊圭史

俳句もようやくサブカルチャーになりましたか

『ユリイカ 特集*現代俳句の新しい波』(2011年10月号)が方々で話題になっている、のかな? 『ユリイカ』が俳句をとりあげる、というのは、最近のこの雑誌の特集ラインナップを考えると、虚子にならって、「ほう、俳句もようやくサブカルチャーになりましたか」とでも言いたくなりますね。まあこの間、日本の現代アートの展覧会に行って痛感ましたが、いまや何もかもがサブカルチャーなんですが……。

いや、それは置いておいて、この特集、収められた論考が粒ぞろいで読みごたえがあります。この水準で、これだけバラエティの広い書き手の俳論を読めるのですから、十二分に買いで保存版です。俳句の専門雑誌は読みがいがある文章があんまりなくて、買う気がしないのですもん。特に、黒瀬珂瀾「寺山修司、一〇代の花」、神野紗希「まだ見ぬ俳句へ 高柳重信の多行俳句」、青木亮人「その眼、「写生」につき 子規、放哉、三鬼らを貫くもの」の三つの論考はとても刺激になりました。

黒瀬珂瀾「寺山修司、一〇代の花」は、修司俳句から受けた「〈散文的〉」な印象から書き始めて、これまでにもよくあった修司作品の虚構性の指摘を乗り越えてゆく刺激的な一文。黒瀬はこの「散文的な傾向」の出どころを社会性俳句であると喝破したうえで、「社会事象を発端としつつも、それを普遍的な象徴として詠む姿勢」により、「事実の〈詩化・虚構化〉」というスタイルを確立したと指摘する。他にも興味深いアイデアが書かれているが、私としては修司作品に「散文的な傾向」を意識できるまで読みとったことがなかったので、不意をつかれた。しかし、言われてみるとまったくその通りで、切れの弱さ、物語性など、修司俳句独特の高い「伝達性」を保証しているのは「散文的な傾向」なのです。まいったね。

神野紗希「まだ見ぬ俳句へ 高柳重信の多行俳句」は重信のカリグラム俳句(句の言葉自体がヴィジュアル的構成によって配置されている作品)に注目して、子規以来の「写生」を理念とする俳句が内容の視覚性を強調し、またそれを保証するために形式の透明性を求めているのに対して、「高柳重信の俳句のもつ視覚性は、俳句作品の形式に宿っている」と指摘する。ここまでは、内容/形式の常套的二分法に沿った対比とも言えるが(それだけでも十分興味ぶかいポイントだけれども)、さらに「重信の多行形式の俳句には、時間性がある」、また「重信の句は、従来の俳句に比べて、物語性が非常に強い」と、「時間性」と「物語性」というキーワードを引きだしてくるところが炯眼。多行形式にこれらの特質を見た論考はすでにどこかにあるのかもしれないが、私にとっては目を開かせてくれる論だった。のです、これもまいったね。

青木亮人「その眼、「写生」につき 子規、放哉、三鬼らを貫くもの」は、「写生」という理念の展開とヴァリエイションを追っていて勉強になる(ちょっと、勉強になる、といってしまいそうな文体ですね、上のお二方にくらべて)。子規の考えた写生(「句を読む速度と内容を想起する速度が合致する作品」(スガ秀実『日本近代文学の誕生』、スガさんの名前、ワードだと出ませんね、糸へんに圭です)から、「作者=主体のまなざしに読者を乗せて「一瞬の風景」を眺めるように強要する高浜虚子の「客観写生」、それと対照的な「自然現象そのまゝの物に接近」(というか、出来事をそのまんま書いてしまう)河東碧梧桐の「写生」へ。さらに、荻原井泉水、種田山頭火、尾崎放哉らの自由律俳句における「写生」の拡大としての「生命のリズム」の追求。また、山口誓子がモンタージュ論といった理論武装とともに展開した、現象のリズム自体(「視覚的な韻律」)をとらえようとした試み。要約しようとすると、上のようにごちゃごちゃなってしまいますが、それだけ情報の多い文章です。ね、勉強になるでしょう。最後、「このように明治期の子規以降、「写生」を軸に多様な俳句観や作品が輩出したが、その基本は共有されていたといえよう。」と、そこまではヴァラエティ豊かに描き出していた「写生」を巡る様相をまとめてしまうのが、ちょいと不満ですが……。

この三者がともに〈散文性〉(神野さんの論では、「時間性」、「物語性」となっていますけど)をとりあげているのが、個人的にはこれからゆっくりと考えてゆく糸口になりそうな予感がします(青木さんは、山口誓子の「大阪駅構内」連作について、「誓子は散文に近い叙法で「汽罐車」を詠み、また「来て止まる」と動詞終止形で終わらせることを好んだ。」として、さらに「読み下す速度を加速させる」ために切字を使わず、「の」を多用するなど工夫をこらしていることを指摘しています)。俳句における「散文性」、この言いかたがいいのか悪いのかもありますが、これがいずこから来て、俳句に何をもたらしたのか、考えてみる価値があると思いませんか?

ちょっと話題はかわって。友人の詩人・田中宏輔さんの最新詩集『The Wasteless Land. Ⅵ』に、「順列 並べ替え詩。3×2×1」という作品が載っていて、最初を引用してみると、

映画館の小鳥の絶望。
小鳥の絶壁の映画館。
絶壁の映画館の小鳥。
映画館の絶壁の小鳥。
小鳥の映画館の絶壁。
絶壁の小鳥の映画館。
 

球体の感情の呼吸。
感情の呼吸の球体。
呼吸の球体の感情。
球体の呼吸の感情。
感情の球体の呼吸。
呼吸の感情の球体。
 
現在の未来の過去。
未来の過去の現在。
過去の現在の未来。
現在の過去の未来。
未来の現在の過去。
過去の未来の現在。
 

実質の実体の事実。
実体の事実の実質。
事実の実質の実体。
実質の事実の実体。
実体の実質の事実。
事実の実体の実質。
 

彼の彼女のハンバーグ。
彼女のハンバーグの彼。
ハンバーグの彼の彼女。
彼のハンバーグの彼女。
彼女の彼のハンバーグ。
ハンバーグの彼女の彼。
[……]

 

と、このパターン(~の~の~、のかたちの順列入れ替え)で延々と続くんですけれども(笑)。一種の定型であるのと、あと、入る要素が3つであることで、どこか俳句と共通点があるのではないかなと感じました。話をちょっと戻して、俳句に「散文性」があるとして、しかし、それとまったく対立しそうな「時間性の抹殺」(山本健吉)っていう特徴もあるらしい。上のパターンは「時間性の抹殺」の究極のかたちかもしれません。あ、俳句の3要素を上のように「~の~の~」にしてみたら、どうだろう?

広島の卵のひらく口。
卵のひらく口の広島。
ひらく口の広島の卵。
卵の広島のひらく口。
広島のひらく口の卵。
ひらく口の卵の広島。
 

満開の森の陰部の鰓呼吸。森の陰部の鰓呼吸の満開。
陰部の鰓呼吸の満開の森。鰓呼吸の満開の森の陰部。
森の満開の陰部の鰓呼吸。満開の陰部の鰓呼吸の森。
陰部の鰓呼吸の森の満開。鰓呼吸の森の満開の陰部。
陰部の満開の森の鰓呼吸。満開の森の鰓呼吸の陰部。
森の鰓呼吸の陰部の満開。鰓呼吸の陰部の満開の森。
鰓呼吸の陰部の森の満開。陰部の森の満開の鰓呼吸。
森の満開の鰓呼吸の陰部。満開の鰓呼吸の陰部の森。
 

たまたま、4つの要素の句が目の前にあったんで、4つパターンでやってみましたが、やっぱり3つのほうが見た目がきれいでいいですね。いや、句中に濃い漢字が多かったのが敗因か、笑。

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