俳句時評 第29回 山田耕司

「手紙」の行方 <私>の行方

揺籃から墓場まで、営々として、狂わぬ正統の俳句及び俳句作家など、私は信じもせず見たいとも思わない。(塚本邦雄『夕暮れの階調』)

「手紙」<第二通>が越智友亮から届いた。

<第一通>の「前記」において越智はこう述べる。

「好きな人に好きと伝える」という当たり前のようなことをだけど、それをしたくて「手紙」を発刊することにしました。生駒大祐さん、中山奈々さんも賛同してくれまして、三者三様の「手紙」を届けることができました。手作りで立派なものじゃないかもしれないけれど、ぼくたちの思いがぎゅっと詰まっています。この思いを忘れないことを大事にしたいと思っています(後略)。

つまり、「手紙」は、月刊誌なのである。
この<第一通>は平成23年10月10日の発行。発行人は生駒大祐、編集人は越智友亮。越智友亮、生駒大祐、中山奈々の三人の<手紙>という文章がそれぞれ見開きで掲載されていて、その他に3人の近詠と思われる作品が10句ずつ載っている。

連絡先として記載されているのは、次のメールアドレス。

letter819@gmail.com

この<第一通>は、東陽町の居酒屋で越智から直接手渡された。「円錐」の創刊20周年記念パーティーの流れの席であったから、できたてほやほやであったわけだ。

今回、メール便で届いたのが、<第二通>。
前記の三人に加えて、福田若之が参加している。

今回は「前記」ではなく「後記」となっていて、このように越智は述べる。

(前略)あのあと「手紙」の方向性を考え直しました。限定部数というのも、原則手渡しというのも、やめました。ただ、人と人とを結びつけるような「手紙」になることを願いつつ、これからも頑張っていきたいと思っています。

さて、そのコンセプトは宣言されたわけだが、<第一通>から、越智の文章は手紙の体裁をとっていない。「きりん、あっけらかん」と題された文章は、西村麒麟の句をあげて作品鑑賞をしている。西村麒麟を読み手としての手紙の文体ではない。生駒大祐も、今井杏太郎の作品をめぐってのメモとでもいうような体裁で、自説を述べている。中山奈々だけが「拝啓、岩城久治さま」というタイトル通り、句の鑑賞が中心ながらも手紙としてのスタイルを提示している。

<第二通>では、新参加の福田若之が西原天気への手紙のスタイルを示しているが、中山奈々も手紙形式ではなく「水」をキーワードにして島田刀根夫の作品鑑賞を展開しているし、生駒大祐は四ッ谷龍論、越智は橋本多佳子論、といった風合いの文章を掲載している。

で、だ。

なぜ「手紙」なのだろうか。

<好きな人に好きって伝える>

表紙には記載されているキャッチフレーズ。
<好きな人>とは、それぞれが挙げている作家であると仮定してみると、そのストレートな「思い」をその作家あてに吐露している文章を予想するのが順当というものだが、実際は上記の如し。

いや、方針と内容が異なっているではないかと疑義を呈するにあらず。

手紙が<私信>であり、<私信>とはおおむね他者との関わりを前提とし、<私信>は一般論に還元される以前に差し出された相手からの<私信>において反論なり共感なりが示されるべきもの、と、仮定してみよう。
してみると、越智たちの試みは、自らの地平から彼岸の作家へとむけられたラブレターではなく、この月刊誌「手紙」を手にする(それは彼らによってあらかじめ選ばれているようである)読者への<私信>ということになるのだろうか。

ただ、人と人とを結びつけるような「手紙」になることを願いつつ、これからも頑張っていきたいと思っています。

どのような「結びつき」を想定しているのかはよくわからないが、すくなくとも月刊誌「手紙」が、誌面運営者と読者との<私>的関係性を求めるカタチで製作されているのが類推されよう。

『否とよ、陛下』(1998年7月7日発行/編集発行者:折笠美秋俳句評論集刊行会/発行所:騎の會/編集委員:阿部鬼九男・牛島 伸・川名 大・坂戸淳夫・佐藤輝明・高橋 龍・寺田澄史・安井浩司)。澤好摩から借りているこの評論集の中に「定型学不全」と題された文がある。
「俳句研究」昭和47年(1972年)1月号に掲載された記録があるが、執筆は1971年12月1日、ほぼ40年前。
折笠美秋の批評文体は、畳み込むようにテーゼと古今の例証を反復する。

俳句形式 それは、”人ばなれ”による、”人いとおしみ”。横ざまに疾走する。

と、こんなのが並ぶ。書き出してみよう。

俳句形式 それは意図的な逢魔が刻。逢魔を待つうないはなり。(表記は原文のママ 山田註)

「うなゐはなり」とは、少女が髪を束ねずに首のあたりに垂らしている状態。折笠は「橘の 寺の長屋にわれいねし うないはなりは 髪あげつらむか(万葉集)」を本文で挙げている。

俳句形式 それは形式を焼き払う形式。焼け跡に残る形式。それをまた焼き払う形式。
俳句形式 それは樵夫箕吉と雪女お雪の交婚にも似た、パロルとエクリチュールの、たまさかの消えやすい出会いがしら。
俳句形式 それは、見事な反逆を、見事な伝統の名の下に嘉納する。

さて、ここからはすこし長いけれど本文を引用する。

俳句形式 それは、充実した”虚”。
 三里塚の新空港計画地の黄色い砂風に立つと、見渡すかぎり何も見えないという平坦な眺望が、即ち、空港それ自体なのだった。これだけの巨大な空虚な形式を前にすると、形式そのものが、人間を駆り立てる目的であって、その形式に盛り込まれようとする意味や用途が、すでに目的ではないかのような思いに浸ることになる。
 サルトル以後のフランス文学の理論的リーダーというR・バルト。『表徴の帝国』で日本論を展開した著者は、こんなふうに賛嘆と警告の原点を示す。三里塚の砂風の中で読むには、それは生ま生ましすぎた。

(前略)表徴は簡単にいって、意味するものと意味されるもの・内容と形式・意味と形式の結合物である。しだいにわかってきたことだが、意味されるもの、つまり内容は、結局さほど重要性を持たない。重要なのは、意味するもの、すなわち形式が相互に作り出す関係の体系である。その場合、形式は内容=意味されるものと照応すると見えながら、関係を断切って独立してしまうことがしばしば起る。まだ話は抽象的であろうが、もっとうまく説明するのは無理である。(中略)
 一般にいって私が堪えがたいのは、内容=意味されるもので満ち、その充実が結局は一神教に基く神学的な色づけのされている意味体系である。反対に私が同意し、私を高揚させてくれる表徴体系もある。これを私は”空虚化された”表徴体系と呼びたい。
 一つの文明が、形式、生活の細部ーたとえば俳句ーを、超越的内容と関係なく、唯一神学と関係なく組織化することが出来る文明であるとき、私はこのような言語、表徴体系に同意する。意味するもの・形式・不連続なもの・偶然的なもの・これらの複雑で微妙な網目、洗練された人間文明の印象を与えながら、最終的には空虚化されており、西洋思想の中心を持った充実とは違った網目、そういったものの存在を私は日本で知った。それは私にとってひとつの発見であった。(1971年3月9日付・朝日新聞夕刊「日本は私のテキスト」)

 かつて「薔薇」期を一つの鞍部とし、なお、いま「俳句評論」に旗色を掲げている人々を中心的に含む一群が、まさにこれ的に営為してきたことを、ことさらには云うまいと思うが、しかし、この人々が”衆の定型”の内側に酸素呼吸を求めず、形式それ自体を磨き”個の定型”に立ち向かってきた状況が、ここでは可成り端的に裏打ちされていることだけは、指摘しておきたい。
 ”衆の定型”という形をとった形式の詩には、すでに何の予言力もない。そして、詩とは、予言以外の何でもない。その意味で、これを三段論法化するならば、”衆の定型”は、もはや詩ではない―となる。

「意味するもの・形式・不連続なもの・偶然的なもの・これらの複雑で微妙な網目、洗練された人間文明の印象を与えながら、最終的には空虚化されており、西洋思想の中心を持った充実とは違った網目、そういったものの存在」これが俳句に投影されているとして、折笠は、バルトのエキゾシズムに対するいささか「ひいき目」のまなざしを利用しながら、内容というクビキを離れて形式を奥深く覗き込むまなざしの必要性を解く方向へ説を展開する。

「個の定型」に立ち向かってきた実践者としてここで想定されているのは、その筆頭が高柳重信であることはいうまでもないであろう。忘れてはならないが、「個の定型」に立ち向かうとは、個人の勝手において定型をいじり、壊してしまうことを意味しているのではない。むしろ、定型が定型として潜在させているチカラを「ああ、なるほど、だから俳句ってスゴいんだな」と形式の典型として示しうるような方法を目指すとして、その営みを個という単位で招き寄せよう、と呼びかけているのである。すでに書かれている作品の「意味」のなぞりを避け、俳句を通じてサークル活動のように「わかりあうこと」に警戒しようと声を挙げているのである。高柳重信を「高柳流」やら「高柳風」という具合に「カワリダネ」扱いするのではなく、俳句形式の本質的な伝統をその独自な方法において顕現化させたとして位置付けているからこその、<個>なのであろうから。

読者と<私>的な関係を構築することと、定型に<個>として立ち向かうこととは、おのずから異なる。
前者は人と人とのつながりを求めるのに対して、後者は人と人とのつながりを断切ろうとするからだ。

前者の代表のようなかたちでを月刊誌「手紙」を扱ってしまったが、この傾向は彼らだけにとどまるものではないだろう。
むしろ、俳句を「通じて」<私>を伝えたい、受け取りたいという傾向は、憚ること無く拡大している観がある。

この稿の目的は、そうした傾向の是非を明らかにすることではない。

<私>を伝えたいという動機は、今日の俳句人口と市場を支える上で重要な役割を果たしていることを忘れてはならない。
それと同時に、詩の行方を見定め、定型と格闘する営みを、<個>のよるべなさにおいて立ち向かおうとする意志が作家には求められていることも忘れるべきではないだろう。
たとえば折笠の評論の骨子は、時代や世代に限定されるべきではない。新しいか古いかというマナイタに乗せるものでもない。「ああ、あの時代ならではの視点だね」とくくってしまってよいものではない。

2011年が暮れようとしている。

何を言うのか、あるいは言わないのか。
たとえば東日本大震災をどのように扱うのか。
そうした「内容」についての判断が詩歌の批評としてあげつらわれそうな時候である。

ではあるが、であるからこそ、折笠美秋の評論を読みなおしたくもなった次第。
まずは自らへの戒めとして。

月刊誌「手紙」の今後は、読者との関係のありようによってどんどん変化して行くのだろう。
ひきつづき注目したい。

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