俳句時評 第35回 外山一機

二〇一二年の路上から

元日の渋谷はいつもと変わらず人が多かった。JRのハチ公口を出ると複数のビルの壁面に張り付けられた大型の画面からCMが流れている。歩道にも車道にも渋谷で年を越した人々の捨てたらしい発泡酒やチューハイの空き缶が転がっていて、路上で生活しているらしい男性は不二家のカントリーマアムの大袋をいくつもバッグに詰め込んでいた。シャッターの閉められた西武の脇を通っていると黒いジャンパーが捨ててあって歩きにくい。信号を渡って向かいのマクドナルドに入る。二階に上がり窓際のカウンターで昼食をとっていると地震があった。十秒くらいで揺れはおさまったのでふと外を眺めると、人も車も何事もなかったかのように通りを行き交っている。店内では大学生らしい三人組が「二階でこんなに揺れていたんじゃ下はもっとすごいんじゃないか」というようなことを話しているだけで、本当に何もなかった。外に出ると、あのジャンパーが歩道を占領していて、みんな何となくそれを避けて歩いている。足にまとわりつくものがあったのでふと立ち止まると魚肉ソーセージの赤いビニル皮が張り付いていた。その瞬間、自分でも驚いたのだが僕はかなりはっきりと「段ボールからマスクや魚肉ソーセージや」を思い出していた。昨年末に刊行された関悦史の句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(邑書林)の一句である。この句が収められているのは句集の第九章「うるはしき日々」であるが、同章について「あとがき」には次のように記されている。

Ⅸの「うるはしき日々」は東日本大震災以後の作だが、発生直後からの長い停電とアンテナ脱落とにより、地上デジタル波完全移行の日を迎えるまでもなくテレビは映らなくなっていた。津波の句がほとんど入っていないのは、映像ですらも目にしていないことがさしあたりの理由といえる。

関は土浦で被災したという。僕が何より驚いたのは、こうした震災(原発事故も詠んでいるのだから被災と言うべきかもしれない)の句が、日常のふとした瞬間に僕の内に呼び戻されたことである。ひどく情緒的な言い方しかできないのだけれど、震災がほとんど「報道」でしかなかった僕には、「うるはしき日々」に収められた句があまりに生々しかったらしい。この日の僕は、「俳句」が切実な生の営みとしてもあり得るのだということを思わずにはいられなかった。

『短歌』が約三年間にわたって行ってきた前衛短歌研究の総決算として座談会記事を掲載している。俳壇でも昨年は『海程』や『豈』などにおいて「戦後派」の仕事を見直す動きが見られたが、いずれにせよそこには戦後派と呼ばれた作家たちの相次ぐ死去による焦燥感があるように思われる。二〇〇〇年以降、歌壇は斎藤史、塚本邦雄、春日井建、前登志夫らを失い、俳壇もまた能村登四郎、沢木欣一、鈴木六林男、飯田龍太、森澄雄らを失ったのであった。いま僕は「俳壇」と書いたが、彼らの死が「俳句」にとってどのような意味を持つのかは、生き残っている者としての僕らの手にかかっていよう。

ところで、こと前衛俳句に関して言えば、一九七三年四月号の『俳句研究』の特集「前衛俳句の盛衰」においてすでに優れた検証が行われている。編集後記において高柳重信が述べているように、当時はすでに前衛俳句の退潮が指摘されていた時期にあった。同特集には金子兜太、堀葦男、林田紀音夫をはじめ前衛俳句の旗手と目されていた者自身の手による記事もあり、特集の末尾を飾っている川名大の論考「前衛俳句の軌跡」を含めて、前衛俳句を知るうえで重要な資料といえるだろう。

この『俳句研究』の特集のなかで折笠美秋が「二羽のツバメ―あるいは前衛俳句の盛衰―」と題する一文を寄せている。兜太が「俳句の造型について」を発表したのは一九五七年であったが、折笠はその翌年にわずか二四歳で『俳句評論』の創刊同人となっている。前衛俳句の盛衰は折笠の青年期において展開されたのだった。

一断定を以て断ぜられるほどに生まな生涯あるいは半生―というものの情無さの一方で、一断定を以て生まな生涯あるいは半生を断ずる―ということの躊躇もまたある。これを歳月といい、老いというのであろうか。前衛俳句という時、そこに何らかの気負いや蹶起の混沌、そして多くの場合、侮蔑と嘲笑の漂ったりした、そういう時期が、いつの間にか過ぎ去っていることに、気がつくのだ。

すでに四十代にさしかかろうとしていた折笠の書き出しはこんなふうだ。過去形で綴られたこの文章はやがて社会性俳句との遭遇へと続いていく。

とにかく、そういう年代的な状況の中で、私は社会性俳句にいきなりいまとして出喰わした。さらにいえば、早稲田車庫から貸し切りの都電に牛詰めになってアンポ・デモに向かいながら、社会性俳句という俳句のいまと出喰わしたのだった。もっと、はっきりいえば、社会性俳句と称する意向や意見を他人(ひと)の仕事として大いに敬意を払い激励の拍手を送りながら、自分の仕事としては失笑を感じていたのだった。みなさん、がんばってください。しかし、私は、俳句がそんなものだとは思えないのです―というわけだった。

(略)

だれかにそれが欠落しているという表面的な即断を以て糾弾の具としない限り、私は社会性俳句を悪しざまに思ったりしない。(略)確かに文学の方法を度忘れはしている。風船を獲えるのに、煉瓦の煙突を築くといった光景であるが、煉瓦の煙突を築くことには文学でない意義が、たっぷりと、とにもかくにも在る。

そして、社会性俳句作家たちが、前衛俳句という名称に応えようとした姿勢は、この煙突のすぐ脇に、踏み台の上に梯子を乗せ、煙突の高さあたりで竹竿を振っているような、そんなふうな、やや危っかしい光景と見えた。(傍点原文)

たとえば前衛俳句についていま僕らが何がしかを語ろうとするならば、彼らの仕事をふまえつつも、しかし彼らの仕事とはいささか意味合いの異なるものにならざるを得ない。それは「前衛俳句」を語るという行為のもつ批評性が一九七三年と二〇一二年では異なるということもあるけれど、そもそも六林男やあるいは紀音夫や兜太や重信の表現が抱え込んでいる戦争体験を共有できると自負するには僕たちはあまりに遅く生まれすぎているし、さらにいえば第二芸術論の与えたインパクトやその後の前衛俳句やその周辺に湧出した熱のようなものを体験することができない以上、僕たちの前衛俳句論は、前衛俳句を語ると同時に、僕らの今とこれからとを語るためのものでなければならないし、そこにこそ批評を書く者の志があるはずだ。

それにしても、ここで折笠が述べている「文学」とは何だったのだろうか。前衛俳句の検証は、結局「文学とは何か」という問いにまで行き着くものなのかもしれない。そして、まるで忘れ去られていたかのようなこの問いは、昨年来ひどく切実な問題として僕らの前に浮上してきたのであった。思えば僕らは昨年、震災以来それこそ「文学の意義」「俳句の意義」を考えざるを得ない日々を経験してきたのではなかったか。

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