俳句時評 第39回 外山一機

羞恥について

形式が内容を決定するのか、それとも内容が形式を決定するのかという議論は古くからあるけれど、僕たちが俳句形式を選んでいるということは、僕たちが形式の力を認めているということを示している。だから、その選択にいささかの羞恥心も介在しないのならば、僕たちはついに、俳句形式によって書かされているにすぎないのではないかという問いに向き合うことはないだろう。

長谷川櫂が『震災句集』(中央公論新社)を上梓した。長谷川は東日本大震災の直後に『震災歌集』を発表しているが、前回が歌集だったのに対し、今回は句集である。震災詠について長谷川は句集末尾で次のように述べる。

しかしながら短歌は俳句より七七の分だけ言葉が多いために、ものごとをきちんと描写することができる。短歌の三十一音という言葉の数は何かを描くために必要な日本語の最小単位ではなかろうか。また短歌は人の心の動きを言葉にして表現することができる。ことに嘆きや怒りといった激しい情動を言葉で表わすのに向いている。

一方、俳句は極端に短いために言葉で十分に描写したり感情を表現したりすることができない。(略)

俳句にあって短歌にないもうひとつの特色は俳句には季語があるということである。季語とは雪月花をはじめとして文字どおり季節を表わす言葉のことだが、季節は太陽の運行によって生まれる。ということは季語には俳句を太陽の運行に結びつけ、宇宙のめぐりのなかに位置づける働きがあるわけだ。

俳句のこうした特性のために、俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。(「一年後」)

長谷川は短歌を「心の動き」や「激しい情動」を表現するのに適した表現形式であるとし、その一方で俳句はものごとを十分に描写することのできないものであり、季語は俳句を宇宙のめぐりのなかに位置づける働きを持つとする。

長谷川の震災詠においては初めに形式がある。換言すれば、長谷川は俳句形式で震災を詠むという前提を疑うことなく震災を俳句形式へと落とし込んでいる。だから、長谷川の震災詠において俳句形式は、確固とした姿で立っている。そこでは表現内容や表現行為が表現形式と衝突することはありえない。有季定型の優位は初めから決まっているのである。長谷川は震災詠が「ときに非情なものとなる」と述べているが、それは俳句形式ではなく長谷川の志向ゆえの非情であろう。

また別の見方をするならば、長谷川は震災によってばらばらになってしまった僕たちの生を季語によってつなぎとめようとしたのかもしれない。すなわち、帰るべき場所としての―僕たちがそれによって自らの生や死のありようを効率よく説明することができる語彙としての―季語を提示しつつ震災を詠むことによって、震災を決して特殊な事態ではなく僕たちに近しいものとして描き直そうとしたのではないだろうか。

大津波死ぬも生くるも朧かな
春の灯の哀しむごとく停電す
この春の花は嘆きの色ならん
花冷ゆる心をもつて国憂ふ
桜貝などに心は慰まず
千万の子の供養とや鯉幟
空豆や東京電力罪深し
幾万の声なき声や雲の峰
初盆や帰る家なき魂幾万
生き残る人々長き夜を如何に
人間に帰る家なし帰り花
つつしんで大震災の年送る

それにしても、長谷川が「つつしんで大震災の年送る」と書くとき、そこにいささかの真摯さも感じられないのはどういうわけだろう。この句で行われているのは、結局のところ「年送る」という季語の強度の確認作業だ。大震災を詠んでも決して揺らぐことのない俳句形式のありようとは、たとえばこういうものであろう。実際、長谷川が「初盆や帰る家なき魂幾万」と書くとき、「帰る家」のない「魂」たちは「初盆」という季語にからめとられ、不特定多数の(「幾万」という数量的な形容がふさわしい!)「魂」へと変貌する。言いかえれば、季語を通過することで震災にともなう生や死はその固有性を喪失するのである。

あるいはまた、「生き残る人々長き夜を如何に」を見てみよう。ここで長谷川は「生き残る人々」のなかに自らは含めてはいまい。含めることを回避してはじめて「長き夜を如何に」という問いは可能になる。「死者あまた卯波より現れ上陸す」(眞鍋呉夫)、「手をあげて此世の友は来りけり」(三橋敏雄)におけるそれのような死者へのまなざしはここにはない。戦後派の俳句表現が僕たちに教えてくれるのは、彼らが―とりわけ男性においては―他者の生死を自らのものとして引き受けるという姿勢をもっていたということだ。また逆に、彼らは自らの生死の問題を他者との関係のなかで思考していた。高柳重信にせよ、あるいは金子兜太の営為にせよ、彼らは生者や死者との奇妙な連帯感を持ちつつけていたのである(たとえば高柳重信ならば若き日の句集『蕗子』から晩年の『日本海軍』まで、その営為には生者や死者への愛着が見いだせるだろう)。自らの生死には他者のそれが連帯し、他者の生死には自らのそれが連帯する。彼らのナルシシズムは同時に、生者・死者への讃歌でもあったのだ。

いま僕は「連帯」といったが、思えばこの連帯が希薄化していくところに戦後派以後があったのかもしれない。少なくとも、生きていることに負い目を感じていたのは戦後派に特有のことだったろう。そしてこの負い目を反転させることで優れた表現が生まれてきたのならば、戦後派以後の俳人たちの困難とは、負い目のないゆえの困難であったろう。

ここで再び「形式」に話を戻すのならば、自らのよって立つものが見えにくくなった時代において「俳句形式とは何か」と問うことは自らの立ち位置をますますあやしいものにする行為にほかならない。だから、その問いをいったん伏せたまま自らの表現行為を立ち上げていくこともありえただろう。しかし問題はそのような姿勢がいつのまにか無自覚なものとなったり、あるいは俳壇の体制となっていったことにあろう。ここ数十年続いている俳人の保守化の一因は、こうしたところにあるのかもしれない。

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One Response to “俳句時評 第39回 外山一機”



  1. on 4月 28th, 2015
    @

    同感です。
    彼の句は虚子より酷く、例えば、春の水とは濡れている水のこと〜このような屁理屈を俳句と称して憚らない厚顔さも、虚子を上回るものでしょう。
    彼のマスコミでの派手な言動は、俳句以外の謎のネットワークで活躍しているとしか思えませんね。

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