欲望からの距離
~『Ιν Σιτυ』第一号を読んで思いついた、ちょっとしたこと~
現代俳句協会(以下、現俳協)青年部の発行する『Ιν Σιτυ』第一号を買った。二段組みって何だか敷居が高い…(活字離れが進んでいる今日この頃)と思いつつ読み始めたら意外とさくさく読める。風呂につかりながら読むのに最適だ。しかし疲れた身体で風呂につかっていると、やはり眠気から逃れられず本を落としかける。やばい! このままじゃ読み終わらない! 締切は明後日…明日…今日…過ぎた…とやっているうちにアップ時間に大遅刻という最悪の結果になってしまった。申し訳ないことである。
創刊号の特集名は「『俳句以後』の世界」。何やらミステリのような構成になっていて、2010年に現俳協青年部のシンポジウムで宇井十間氏が提示した「俳句以後」というキーワードに対して、青年部の他のメンバーがゲストも交えつつ「俳句以後」とは何なのか、とそれぞれの視点でアプローチしていくのだ。ここまでなら特集とキーワードの発案者の関係にはそれほど特殊なところはみられない。だがしかし、宮本佳世乃のエッセイによると、宇井はこのシンポジウムの1年後、『Ιν Σιτυ』作成のさなかに失踪(?)してしまう(編集後記でネタバレあり)。シンポジウムを受けての座談会などは宇井を主な回答役として他の現俳協メンバーがゲストの佐藤文香からの質問に答えるかたちで進行していく予定だったようだが、それも軌道修正を余儀なくされる。そのせいか、座談会は参加者「俳句以後」の定義し直しの様相を呈し、欲望をかきたてる存在であるためにどうすればよいか、という話題になっていく。ヴィレッジ・ヴァンガードに句集を置いてもらえるには、ということだ。
この手の話題はまあ…ああだこうだと考えるより圧倒的に行動する方が楽しいし有意義なものである、というのが私の持論である。
最近何となく考えているのは、試しに俳句クラスタ数人でイラストや文章を発表するSNS「pixiv」にユーザー登録してみたら面白いんじゃないかなあ、ということ。マイピクと呼ばれる、作品を見せ合うメンバーを増やしていき、twitter企画のようにタグをつけて同時多発的に作品を発表したり、ほかのユーザーの作品にインスパイアされた「イメージレスポンス」として俳句を発表したりして、パフォーマンスというかアクションとしての俳句の面白さを未知のユーザーに伝えようとするのは決して無駄ではないように思う。そこから作品での交流が生まれることは十分考えうることである。句会報を作品としてアップするのも新鮮ではないだろうか。自分の作品に注目度が高そうなタグをつけたりして多くの閲覧数を稼ごうとしたりするのも面白そうだ。
(※pixivに関しては、2011年6月号の『美術手帖』も参考にされたい。仕事でのスカウトや趣味の二次創作閲覧でpixivを使用している筆者からすると食い足りない感のある特集ではあるが、紙媒体中心の生活をしていて、いちから使い方を学びたいという層には良い特集であろうかと思う)
俳句をいかに流通させるか、多くの人の欲望をかきたてる存在にのしあげるか、という議論は興味深くはあるけれど、俳句を作ってる時にそういうことを考えて作ったことが自分にはないので、やはり色々といかんともしがたいなあと思ってしまう、そんな今日このごろである。