俳句時評 第50回 湊圭史

川柳誌『MANO(マーノ)』第十七号

『MANO(マーノ)』は加藤久子、佐藤みさ子、小池正博、樋口由紀子、石部明による川柳同人誌(最新号の第十七号では残念ながら石部明が欠席)。巻頭の「作品」から各作家4句ずつ引いてみる。

結論は水を含んで落ちてくる      加藤久子
石のなかのからっぽ少し暖かい
綿虫も前頭葉もうす暗い
ぎゅうっと空をひっぱっている蛹

安全と信じる人は手を挙げよ      佐藤みさ子
ナス植えたトマトを植えた家を出た
避難するにっぽんじんの寒さから
無尽蔵の闇にならべているふとん

鹿は死に絶えシステムは無責任     小池正博
青鷺がじっと見ている欲望フロー
ごはんください昭和二十九年の
犯行の一歩手前の早口ことば

頭ならどこに置いても大丈夫      樋口由紀子
四、五人が余ってしまうダイニング
ガムテープ顔の上には顔があり
下着からはみ出しているいい気持ち

四者四様で、まとめようもないが、かといってバラバラでもない誌面。少人数の同人誌のよさが、十七号を経ても有効に働いているようだ。

小池正博は評論「筒井祥文における虚と実」は、京都の川柳作家で、川柳結社『ふらすこてん』発行人の筒井祥文をとりあげ、筒井川柳の基盤である落語からのアプローチを試みている。「そば清(蛇含草)」のオチを三代目三遊亭小円朝がながながと説明してしまった例をあげて、

この説明をよしとするかどうか。「お蕎麦が羽織を着て座っている」というグロテスクで不条理なイメージが説明によって壊れてしまうのだ。意味を伝えることと落語美学との二律背反。祥文の戦いが始まるのはここからである。

と小池は書く。川柳にしろ、落語にしろ、説明ができるかどうかは別として、読み終え(話し終え)たところで、すとんと落ちるかどうかが重要である。さらに言えば、すとんと落ちて、しかも説明しようとするとその面白さが逃げてゆくようなものが上質なのだ。こうした句を紹介しようというのは、評者にとってはじつに厄介である。小池の読みを見てみよう。

弁当を砂漠にとりに行ったまま
 
出ていったまま、いつまでも帰ってこない人がいる。煙草を買いに行ったまま帰ってこないなら演歌の世界であるが、なぜこの男(女でもよいが)は弁当を砂漠なんぞにとりに行ったのか。よく考えてみると変な状況である。そこで読者は「なんだ、これはウソの世界だったのか」と気づくのだ。弁当をとりに行った男がその後どうなったのか心配する必要はまるでなかったわけだが、人がいなくなったヒヤリとした感覚は妙に心に残る。

小池自身も「(おっと、私もつい説明に走ってしまったようだ)」と別の句の読みのところで洩らしているが、こうした一種の解題はじっさいの読みで起こる過程の引き延ばしでしかない。「弁当を~」の句が分かる読み手には、一読ですとんと、小池が丁寧になぞっている心的過程が過ぎて、やられたな、とニヤっと笑みが浮かぶはずだ。また、その読みとられの「速さ」こそが魅力の一端、いや大きな部分を占めているのだ。(もちろん、小池はそれを分かったうえで、あえてスローモーションで過程を見せている。)

小池が引いている筒井祥文句をいくつか並べてみよう。
御公儀へ百万匹の鱏連れて
殺されて帰れば若い父母がいた
福助の頭で列車事故がある
動議あり馬の眉間へ馬を曳く

川柳の句会では、題ごとに、一選者による選・披講が行われることが多い。つまり、題について一人2、3句提出し、それを選者が一括して受け取り、何パーセントかを句の良否、ときには読んだときの効果も考えて抜き出し、配列する。そして、披講において一句ずつ読みあげていく。この際、句についての評などは基本的には加えず、ノンストップで次々と読みあげる。筒井川柳の「速さ」がいちばん活きるのは、そうした句会の場においてである。

樋口由紀子の評論「飯島晴子と川柳」には、

日常次元の、現実の、生活の中でも詩は成り立つのだろうか。川柳は詩とも無関係ではなく、むしろ詩の独自の手応えを見せることのできる領域かもしれない。

とある。古ぼけた文学臭から遠く離れて「速さ」をつきつめてゆく筒井川柳には、この「詩の独自の手応え」がつまっている。

祥文と書くどくだみが咲くノート
こんな手をしてると猫が見せに来る
どうしても椅子が足りないのだ諸君
栗咲いてセールスマンは尾根伝い

タグ: , , , , ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress