俳句時評 第53回 湊圭史

『加藤楸邨句集』(岩波文庫)など

本屋にて森澄雄・矢島房利編『加藤楸邨句集』(岩波文庫)を見つける。新刊であることに驚いた、後、そういえば、俳人の選集みたいなのは子規と虚子ぐらいしか岩波文庫でしか出てなかったよなあ、としみじみしました。翌日、新刊句集を探しにいったのに、結局これを買ってしまった……。で、ちらちらと読んでいるのですが、楸邨の「全俳句作品約9400から約3000句を厳選する」と表紙にある通り、3000句収載されております。3000句(!)、多いですよお。3分の1で「厳選」はないんじゃないのかなあ。立派な全集も出ているんだし、文庫ならばっさりと10分の1以下ぐらいに本当に「厳選」してくれると助かるんですが。資料的価値ってものでもないのですからね。パラ読みですけど、

月光となりてゐたりし黄金虫

とか、

枯山の傷すさまじき露天掘

月夜にてただ蓑虫が匍ふばかり

とか、そんなにいい句とは思えないですよ。もちろん、おなじみの傑作に再会できたり、新発見の句(「沼の上の月は下弦に蛇つかひ」「裸木にひたすらな顔残したり」とかは、いいか悪いかは分かりませんが、なんだか面白い)があったりはするのです。が、何というか……、ちょっと多過ぎですよね。編者の師に対するいらざる遠慮でしょうか。

とはいえ、楸邨、初期の数句集の強烈な引きには相当なものがあって、俳句にそんなに興味が湧かない人でも、最初の数十ページは行けるのでは。何だかなあ、と思ったのは、中村稔氏による解説「加藤楸邨という小宇宙」。タイトルの「小宇宙」ってあたりに、アララ、と予感はしたのですが、私からすると妙な方向に楸邨絶賛をされてます。最初の部分では、

鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

と、村野四郎の詩「さんたんたる鮟鱇」(「顎を むざんに引っかけられ/逆さに吊りさげられた/うすい膜の中の/くったりした死/これは いかなるもののなれの果だ[…]」)、それに、

雉子の眸のかうかうとして売られけり

と、斎藤茂吉の「上ノ山の町朝くれば銃(つつ)に打たれし白き兎はつるされてあり」が比較されています。そして、村野や茂吉は「説明過多」で「楸邨の十七文字には遠く及ばない」、対して「楸邨の作には冷酷ともいうべき眼差で対象に迫った鮟鱇という物体がある」、「雉子の眸」には過剰なものはすべて切り捨てられている。楸邨はあるものをあるがままに提示している」というのですが、えー、本当かなあというのが感想。

私には、茂吉の「上ノ山の朝くれば」のほうがしごくあっさりしていて、中村稔氏の言及している「茂吉の妻輝子夫人にまつわる事件があり」などということを考えなければ、吊るされて白い兎が日常の中に見える気がする。楸邨の句はそれに比べて、「骨まで凍ててぶちきらる」(「まで」は説明じゃない? 「ぶち」って超主観じゃない?)とか、「かうかうとして売られけり」(どう考えても感情移入しまくっていますよね?)とか、とっても過剰な説明があるんじゃないでしょうか。そもそも中村氏も引かれているように、楸邨といえば、

かなしめば鵙金色の日を負ひ来

みたいに、みずからの鬱屈を歌い上げた(青春!な)ような句が印象的ではないのかな。これは、「あるものをあるがままに提示している」というのからはほど遠いだろう。中村氏の論は、こうした主観的な傾向と、恐らく楸邨自身が芭蕉を引いて述べていただろう「物の見えたる光」うんぬんの「写生」(?)方式(私には齟齬があると思うんですが)を、「大宇宙」「個性」という曖昧な語にぽーんと落とし込んで、カッコよくまとめていて、ファンは喜ぶだろうなあという文章になっています。

でもねえ。私自身の意識からすれば、「現代俳句」の代表者らしい(「現代俳句に大きな足跡を残した…」岩波文庫宣伝文より)楸邨はとっくに古典の範疇に入ってしまう。つまりは、これまでの歴史のどこか、具体的には太平洋戦争時あたりに位置づけられた、ひたすら「読む」対象なのです。その距離をもってみると、楸邨・草田男・波郷の「人間探求派」たちはとってもワガママに主観を歌い上げて、それが時代的に成功してしまった人たちに見えるのですよね。これは、彼らの句がつまらないといっているのではなくて、逆に、今の人たちが同じようにやっても必ずや失敗することをしているのにうまくいっている、見事な成功例、憧憬すべき傑作なんだと言っているんですが……。それを「あるものをあるがままに提示している」なんてことを言って、アイマイにしてしまうのはもったいない、と。同じことは、村野や茂吉の詩や短歌にも言えることで、近代という時代のオモシロサだと思うのですが、俳句対詩・短歌みたいな対比で捉えるのはつまんないぞと思うのです。

友となり妻となり亡くて牡丹となり 

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川  中村草田男

なんて、ヌケヌケと言ってみたいじゃないですか、「妻」に「牡丹」「天の川」なんて陳腐な取り合わせで強行突破しちゃてて! でも、現代人はどうも照れていけねえや……。とか、いろいろ突っ込みながら、楽しんで読ませていただいているわけです。

他、最近興味をもって読んだのは、高橋睦郎『詩心二千年――スサノオから3・11へ』(岩波書店)。岩波のPR雑誌『図書』掲載時から時々読んでいましたが、「日本語詩歌通史」の大胆な試み。『私自身の俳句入門』(新潮選書、1992)とも共通するところが多いですが、

遠方から訪れる神との相聞から、敗れさっていったものらへの「歌枕」を通しての鎮魂、「歌枕」から四季の景物への移行と、「季題/季語」への日本詩歌の道のりが(それ以外にも読みどころは多いですけど)、「からうた」と「やまとうた」の響き合いの系譜としてとらえられている。ここに書かれた季語観を、現代俳人はどう読むのでしょう。私としては、非常に説得される部分が多かったです。川柳は系譜に入ってないみたいなんで、まあ、あくまで外側の人間としては。

タグ:

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress