俳句時評 第58回 外山一機

『澁谷道俳句集成』―初期句集を中心に―

『澁谷道俳句集成』が本年度の蛇笏賞を受賞した。澁谷道は昭和元年生まれ。昭和一八年に大阪女子高等医学専門学校に入学し、同書の年譜によれば「同級に外池鑑子、一年上級に八木三日女在学」とある。昭和二一年には学内の句会に参加していたようだが、同年、戦地から帰還した平畑静塔が精神神経科学教授として赴任、さらに翌年には「西東三鬼、橋本多佳子、波止影夫らの俳人が来校、句会が開かれ、八木、外池、浜中(浜中薫香―外山注)らと毎日のように精神科教室に出入りした」とあるから、のちに「根源」の語とともに戦後俳句史の一角を担うことになる『天狼』創刊の前夜にこそ澁谷の作家としての出発点があったのである。

『天狼』創刊直前のころ、平畑教室で句評をしていた三鬼が突然、「これが酷烈なる精神だ」と声をあげた。聞きなれぬ言葉が鮮烈に響き、私は思わずその顔を振り仰いだ。その時の彼の昂揚した表情の輝きは強くいつまでも印象にのこった。三鬼俳句の、

百舌に顔切られて今日が始まるか

は、まさしく「酷烈なる精神」の象徴だと思った。この言葉の具体的な意味を、深く知ることは出来なくとも、この句は長く深い苦悩を刻んだ顔をもち、なおその苦悩から解放されぬ人の姿をまざまざとみる想いがした。『天狼』の創刊号をひらくと、この言葉が山口誓子の「出発の言葉」の中に出ていた。(澁谷道「三鬼をあるく 縷紅抄(四)」『紫薇』平成一〇・二)

『天狼』には澁谷も投句しているが、昭和二七年に「梟の会」を母体とする同人誌『夜盗派』が創刊されると、その創刊メンバーとして名を連ねている。創刊号に掲載されている梟の会の会員名簿には八木三日女、浜中薫香、外池鑑子ら澁谷の同窓生の他に佐藤鬼房、鈴木六林男の名もある。当時鬼房は『名もなき日夜』(昭和二六)を上梓したばかりであり、六林男もまた『荒天』(昭和二四)上梓後、『谷間の旗』(昭和三〇)や「吹田操車場」を含む『第三突堤』(昭和三二)へと続く道程において自らの表現を模索していた頃であった。そこには戦前や戦中と地続きの戦後があり、同時に、その戦後とは未定の現在でもあったのだ。

『夜盗派』は昭和三五年に第二九号をもって終刊するが(のち『縄』を改題して復刊)、澁谷が俳句作品以外をもって誌面を飾ることはついになかった。思うに、すでに脚光を浴びつつあった三日女ら同窓生に比して、澁谷はやや影の薄い存在だったのではなかろうか。『夜盗派』に参加していたころの澁谷の作品は第一句集『嬰』に収められている。

麻酔マスクの奥綿菓子の様な眠り
邂逅へ胸の氷河が始動する
阿修羅と逢ふ噴き溢れ散る雪柳
青天やレモンの如くひよこ撒き
洞出口やさしきまゝの少女の顔

やや理知に傾いた言語操作が見られるが、たしかな身体感覚を鮮明な色彩をもって句に昇華している。ただ、当時「男は体の五感で感じとったことを一度頭へ持って来て、思考し、それを更に体でもって表現するが、女はそうでなく、この思考の過程が省かれるという意見があります。私は決してそうではないと考えます。又そうであってはならないと考えます」(「超女性論」『夜盗派』昭和二九・一)と述べ、やがて「満開の森の陰部の鰓呼吸」(『赤い地図』(昭和三八))に至って「前衛俳句」の渦中の人となっていく三日女に比べたとき、時代に恵まれたのはむしろ三日女ではなかったかと思われるのである。

此の句集には昭和二十年から昭和三十年末までの作品を採録した。

この期間は私の青春時代であり、その青春は、第二次世界大戦と戦後の混乱によってゆがめられたとはいへ、一応一般の女性がたどるであろう道をたどり得たので、こゝに一冊の句集としてまとめて見た。(略)

紅茸は外見美しくて、人類等の動物に毒性を現はすという性質を面白いと思つたので集中の句より題名として彩つた。これは私の一種の抵抗意識によるものである。(八木三日女「後記」『紅茸』昭和三一)

句集名をもって自らの「一種の抵抗意識」を提示する三日女とは「一応一般の女性がたどるであろう道をたどり得た」と自認する女性であった。換言すれば、三日女の「一種の抵抗意識」とは「一応一般の女性がたどるであろう道をたどり得た」ゆえに提示できたものであって、そのような振る舞いを含めて三日女は戦後の俳句史を駆動する一人となることを要請されたのであった。一方澁谷は三日女に遅れること十年、ようやく第一句集を上梓している。

わたくしの青春は終始にがにがしいものでありましたから、そして俳句は痛みの歴史を曳航するものでありましたから、わたくしはひたすら過去を密封してまいりました。

それが退き潮に乗って海へ出る様に、至極自然に句集を出してしまった、その事に、ある衝撃を感じます。

おそるおそる剥がした封印が、意外に枯れていて、すでに抵抗を失って居た事にわたくしは取り戻し様のない歳月を感じます。

嬉しくても悲しくても傷つく様な生き方とは「嬰」を出すことで別れたいと思います。(澁谷道「あとがき」『嬰』昭和四一)

澁谷は「ひたすら過去を密封」してきたという。両者の第一句集の刊行時期に十年の開きがあるのは、両者の資質によるところが大きい。たとえば三日女の句集名にもなった「紅茸」の句を同句集から引いてみよう。

さしのぞくたび紅茸にまみゆるや
紅茸を蹴りて血統正しき身
紅き茸礼讃しては蹴る女
紅茸の群生ふまほら霧流る
毒茸を踏むサンダルが燃ゆるかと
毒茸を踏みての後を見ざりけり
紅茸の前にわが櫛すべり落つ

澁谷の『嬰』にも紅茸の句がある。

踏み裂きし茸の朱をのがれ来る

澁谷の句は三日女の「毒茸を踏みての後を見ざりけり」と似ているようでもあるが、「俳句は痛みの歴史を曳航するもの」という自身の言を体現しているかのように痛みを痛みとしてそのまま句のなかに残している。三日女の句に見られるような、ある種高踏的な詠みぶりは澁谷には見られない。三日女の華々しい活躍の傍らにあって、しかし、澁谷の抱えていた問題意識はもう少し根深いところにあったのである。

炎昼の馬に向いて梳る
病みし馬緑陰深く曳きゆけり
炎天へ鉄のベンチを引きずり来る
右手つめたし凍蝶左手へ移す

『嬰』の佳句は、『夜盗派』以前のこうした句にこそあるだろう。自らの抱え込んだ生の虚しさや痛みをそのまま句に刻印する澁谷は、実はその作家としての根底的な部分で鬼房や六林男と繋がっていたのではないかとさえ思われるのである。その意味において、澁谷は三日女になれなかったはずなのだが、問題はそれをどこまで澁谷が自覚していたかということだ。『嬰』は昭和四一年の刊行、すでに前衛俳句退潮のころであった。続く第二句集『藤』には「土雛の拭きても拭きても暗き赤」「川霧の白き密室わが泣き場所」などが見られるが、このような暗喩の多用は、今日においてはむしろ痛ましくさえある。だから、澁谷が『藤』以後こうした方法から離れていくのは、必然でこそあれ、作家としての退却ではなかった。

灰のように鼬のように桜騒(『桜騒』)
霧最上遺骨の父を絹もて巻き(『縷紅集』)
わたくしは辵に首萱野を分け(『素馨集』)

いわば前衛俳句のただなかにありながら前衛俳句的な手法をその資質上身につけることの最も困難だった作家の一人が澁谷であったのである。翻って、いまや澁谷は、『俳句集成』が編まれ、のみならずそれが蛇笏賞を受賞する澁谷道となった。いま時代の風はどうやら澁谷に吹いているようだ。だが紫色の落ち着いた風合いの『澁谷道俳句集成』と、紺色の地に朱色のおどる『八木三日女全句集』の二冊を並べ置くとき、「前衛」なるものの行く末のめでたさと悲哀とを感じるのは、はたして僕だけであろうか。

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