俳句時評 第60回 山田耕司

道化のワダチ

お嬢さん、衣服を見て人を知るあたわずだ。
おれの衣服が阿呆のまだら服だからって、頭のなかまでまだらじゃない。
W. シェイクスピア『十二夜』より

暑いですね。

暑いから、「暑い」と書いたまでだが、「俳人ならもうすこし気の利いたことを言え」と言われかねないのである。

「気の利いたこと」とは、季節にぴったりの「うまいこというね」というフレーズにほかならない。

ちょっと乱暴な分類をしてみよう。

もし彼が歌人であって、「おい、気の利いたことをいってみろ」と言われているのだったら、おそらく人間としての境涯についてうまいこと言えという期待をかけられているのである。平安時代であれば<自然>と<人間>の要素を掛詞や縁語などの言葉遊びで切り返すのであろうが、現代はそのような技術を示すことが歌人の特徴ではないし、第一、期待している方もそんな面倒なことは却下するにちがいない。

詩人とは、「おい、気の利いたことを言ってみろ」と気軽に投げかけられることがめったにない。気軽にからむことが出来ない気配を漂わせていて、その分、反動かどうかは不明だが、言動が人にからまれやすいようであったら、それは俳人でもなく歌人でもない。詩人である。

たいてい「気の利いたことを言え」と絡んでくるのは、シロウトである。ここで断っておかなければならないが、シロウトという言葉そのものにマイナスの意味合いを込めてはいない。人はたいてい何事においてもシロウトであり、加えて言えば、シロウトである自覚すらないのが一般的である。困るのは、自分が何事かの「シロウト離れ」=「専門家」であると勘違いすることであり、さらに面倒なのが「シロウトであること」のどこが悪いんだ、何かの専門家なんだったらシロウトを喜ばせてナンボだろう、と開きなおるタイプの<シロウト>である。一度や二度見たくらいで文楽のような形態の芸につまらないというコメントをつけるのもこうした手合いである。<シロウト>は分かりやすさを重んじ、大衆化や一般化を自説の優越性の根拠とする。モンスターシロウトとでも呼ぶべきなのであろうか、まあ、それはさておき、「気の利いたことを言え」というのは、シロウトぶりの深刻度合いとはほぼ関係なく、たいてい無分別に投げかけられると言っていい。

俳人には、そういうチョッカイを出しやすいのである。

俳人が出してきた「気の利いたこと」は、シロウトでもチェックしやすい。五・七・五であり、季語というものがはいっていればよいということを学校で習ったのである。

チョッカイを出す程度に絡んだ人とっては、<現代詩>はどんな顔をして受け取ればいいのかわからない。チェックのしようがないのである。短歌においては、いちおうカタチとして「短歌なんだろうな」とは確認出来るものの、内容については「そんなもんかなあ」とシロウトは受け入れるしかない。

ところが俳句は違う。「え? それで俳句なんですか? 私が学校で習った俳句と違うんだけど。」というイブカシミのまなざしをシロウトは標準装備している。

仮に、こうしたシロウトの期待に応える行為を<道化>と呼び、それが繰り返されて常態にすらなりつつあることを<道化のワダチ>と呼ばせていただくことにしよう。

「俳句」8月号(角川学芸出版)<緊急座談会>
「どうなる!? 二十四節気」岡田芳朗+宇多喜代子+長谷川櫂

2011年5月、一般財団法人日本気象協会は従来の二十四節気を見直し、「日本版二十四節気」を提案すると発表しました。このことは俳壇に大きな波紋を呼び、また日本人にとっても、重要な問題であるかと思われます。そもそもなぜこのような議論が起こったのか、今日は「日本版二十四節気専門委員会」のメンバーである岡田芳朗氏、長谷川櫂氏にこれまでの経緯と今後の方針をうかがい、宇多喜代子氏に俳人としてのご意見をお聞かせいただきます。

これは、座談会の前書き(p104)。

「大きな波紋」が感じられなかったのは山田が俳壇と地続きではないからであろうが、「こもろ・日盛俳句祭」においてこの話題が俎上にあげられるであろうことに関してはフェイスブックの島田牙城氏の記事などから拝見していた。多くの論客を擁しての「こもろ・日盛俳句祭」での議論はいずれどこかで拝見する機会があろうと思うので、それを期待するとして、あくまで「俳句」誌における座談会に対象をしぼらせていただくこととする。

 註:第4回「こもろ・日盛俳句祭」

さて、話の内容はこうだ。

二十四節気は実情に合わず、わかりにくい→廃止するには文化的な影響が大きすぎる→二十四節気は動かさず季節にふさわしい新しい言葉を募集する方向へ修正(イマココ)→「新しい季節のことば(仮称)」を公募内容をふまえて専門委員会が提案(来春予定)

宇多 二十一世紀以後の子供たちにも分かるように、季節の認識の仕方を分かりやすい言葉で表すのは大賛成。でも新しい季節の言葉の募集はどうするんですか。

長谷川 公募の仕方については、検討中です。当初は今秋をめどに従来の二十四節気の見直しを検討していましたが、公募の結果をふまえて来春、「新しい季節のことば」(仮称)を提案することになりました。

とりあえず二つ、やることがあります。

ひとつは二十四節気の分かりやすい解説を考える。これは専門委員会でできます。

もうひとつは、「菜種梅雨」とか、いい言葉があるので、そういうのを選びましょうという話になっています。歳時記にはいい言葉がいっぱいありますね。その中からピックアップするということです。

宇多 昔のものを知った世代の方がまだいるうちに、子供たちに「日本にはこういう季節があって、それにふさわしい魅力的な言葉があるのよ」ということを教える。それをテレビでお天気お姉さんが言ってくださると普及しますね。

岡田 天気予報などを言う時にも、季節に合った言葉で表現してくださると分かりやすい。

心温まるオトナの対応である。長谷川氏は公的な専門委員の中での俳人という役割に対して責任を果たそうとし、宇多氏は世代的な配慮と一般化への配慮という通時的共時的な視座を示している。

<座談の背景にある考え方>
 ◎ 季節を表す言葉を重んじるのは日本人の特長である。
 ◎ 俳人は季節をあらわす言葉に敏感である。
 ◎ 俳人が頑張ることによって、日本人の文化の「改悪」が阻止される。

ここにおいて「日本における二十四節気の見直し」問題は、気象協会が提案した視点を離れ、俳人と歳時記が文化的な提案を日本にもたらすかのような期待へと焦点を移している。

ときに。
心は温まるが、これぞまさしく<道化のワダチ>の顕現なのではないだろうか。

季節をあらわす言葉を行政組織がいかに変更するかによって、作品が書けなくなったり読めなくなったりするのは、言ってみれば「他律への依存」。その変更を阻止して、別の他律をあてがい、それをメディアで普及させようというのは「他律への中毒」。

他律への依存や中毒をもたらす中心には「分かりやすさ」という基準が繰り返して登場する。これは誰にとっての分かりやすさかといえば、つまりはシロウトにとっての分かりやすさ。二十四節気を「分かりやすい」ものへ、という運動を前に、俳句形式が本来抱えている命題を「ちょっとコチラに置いておいて」、世の求める分かりやすさへと取り込まれていく意見の流れは、<道化のワダチ>が俳句と社会のあいだに深く刻まれていることを示している。

ここであえて申し上げておかなければならないが、宇多、長谷川の両氏を、形式を分かりやすさだけに還元していこうとするような存在としてあげつらうつもりはないのである。あえてそんなことを意図してはいないであろう思慮に富んだ俳人でさえ、国家や国民などといういわばデカいシロウトを相手にする時には、シロウトが求めるような役割を演じてしまうことに疑いを持たないことを指摘したかったにすぎない。

<私にとっての>俳句を語るのではなく、俳句とは<誰にとっても>こういうものだということを語るとき、俳句形式が内包してきた豊かさは類型化され、平板化され、とり扱いやすい約束事へと姿を変える。そんな現象を、二十四節気問題そのものよりも注目したかったのである。

たしかに、定型は他律といえよう。季語も、また他律である。体感する季節感を重んじるだけであったら、歳時記はそもそも必要ない。ゲームとは、もとより他律の枠があればこそチャレンジする甲斐が生まれようというものだ。しかるに俳諧の連歌とは、他律の複合的な連鎖を守りつつくぐり抜ける高度なゲームだったのである。

俳句形式においての近代的な改革とは、こうした他律の存在をそのままに、内的動機や世界との接し方に於いて、他律を自律として扱おうとする行為としてあらわれたのではなかったか。他者との連続性をいかに断ち切ってわが一句として言葉を立たせるか、そうしたチャレンジとして俳諧の連歌と峻別されたのではなかったか。

いきおい、他者との不連続としての試みは、その担い手の単位を「個人」とすることになる。俳句を作るための「方法」とは、「個人」が他律を身体化してゆくプロセス、<私にとって>の俳句を呼び出すための作法、そんなものの謂いにほかならないだろう。

<道化のワダチ>とは、けだし、「方法」の対義語なるか。

すれば、シロウトとは<誰にとっても>価値があるものが存在すると信じて疑わない状態、ということもできようか。

ついでに ①。

夏休み。
俳句の宿題に関する相談が持ち込まれると、とても困る。
それなりに体裁をつけてあげられそうになり、それはイカンと踏みとどまる。

学校教育で、国語の授業として俳句を扱うことには、基本的に賛成しかねる。

学校とは<誰にとっても>価値があることを、<誰にとっても>価値があるとしたままに体得させる傾向があるからである。<私にとって>の俳句を志して方法をチャレンジするような書き手やら、そういう視点で作品と接する読者やらが、学校という環境に生徒としていないわけではないだろうが、それを指導することができる者までそこに揃っていることは希有な事態になるだろう。第一、そんなに個人間の方法を認めていたら、採点ができない。採点ができないものはカリキュラムとして維持できない。したがって<誰にとっても>価値がある俳句(そんなものあるのだろうか)が指導の素材になるのである。

先生の目を盗んで書く、あるいは何らかの賞をめざして自己の表現と向き合う、こんな行為の契機として学校があるならば、それは、俳句にとってはむしろ愉快なことではあろうけれど。

ついでに ②。

オリンピック。
個々の選手の営みを、テレビの前ではげましたり批判したり。
われわれはおおむねシロウト。
メディアはシロウトを楽しませることを主眼におき、ときに屈辱の涙がにじむ選手を競技直後にマイクの前に立たせ、憚ることがない。選手たちも、それを社会的な責任と受け止めて見事な対応を見せたりもするが、ナショナルフラッグを背に負っての<道化のワダチ>が、選手たちの孤独なチャレンジを歪めてしまうのではないかと心配したりもする。われわれのシロウトぶりが更に拡張され強化されていくことへの不安のようなものも、また。

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