俳句時評 第62回 外山一機

眞鍋呉夫の「戦後」

今年六月、眞鍋呉夫が亡くなった。眞鍋は一九二〇年生まれ。宗左近編『眞鍋呉夫句集』を除けば生前三つの句集を持っていたが、むしろ小説家として認知されていた眞鍋がにわかに俳人としても知られるようになったのは若き日の第一句集『花火』(こをろ発行所、一九四一)から約半世紀後、『雪女』(冥草舎、一九九二)上梓以降のことであった。水野真由美は「五〇年ぶりの第二句集『雪女』で眞鍋は異なる立脚点による作句を再開した」として次のように指摘している。

いわゆる「花鳥諷詠」「客観写生」に対しては物語性を強く打ち出し、「社会性」に対してはほぼ同年代の鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄らが戦争体験や戦死者への眼差しを変化させながらも書き継いでいる期間、それを俳句に持ち込むことをせず、「前衛」として俳句の表現を揺さぶることもなく民俗性やエロスを梃子として反近代、反文明の世界を展開しようとしたといえる。(水野真由美「連れてきた戦死者たち―眞鍋呉夫句集『月魄』」『鬣TATEGAMI』二〇一〇・五)

戦後派と同世代でありながら、三橋敏雄以上に遅れて再帰したのが眞鍋であった。

露の戸を突き出て寂し釘の先
荒縄で己が棺負ふ吹雪かな
後の月身の片側は醒めてゐて

『雪女』には生きる者の寂しさや死の気配が漂っているが、しかしながら戦後派の抱えていた問題、すなわち「戦争体験や戦死者への眼差し」がより表面化するのは同氏最後の句集となった『月魄』(邑書林、二〇一〇)においてであった。

俳句形式の「典型」の美しさを感得しながら、かつそのテーマに一点の「アナクロニズム」(夏石番矢評言)をも感得しながら読むことのできる作家は三橋敏雄が最後だと思っていた。ところが、眞鍋呉夫氏の『月魄』は、その二つを感じつつ読める句集として出現した。(略)既知の俳句文体を惜しみなく使いきる「典型」の強さを持ちながら、「ノモンハン事件より六十年後の遺骨収容」と前書した「鉄帽に軍靴をはけりどの骨も」のように歴史社会に眼を開く無季句が違和感のない一つの世界として展開されている。俳句を書く志の高さが、書くことのマニュアル化に向かう俳壇の中にあって、一際くきやかである。(林桂『鬣TATEGAMI』二〇一〇・二)

『雪女』以後の眞鍋についての評価はおよそこうしたところにあろうかと思われる。しかしながら、最も遅れてきた戦後派であり、それゆえに独自の達成をみた眞鍋の仕事は、まさにそれゆえに検証・顕彰が尽くされたとはいえないのが現状であろう。いまだ踏まざる沃野としての「眞鍋呉夫」の創出を期待する所以であるが、僕もまたこの場をかりて書いておこうと思う。

眞鍋呉夫は父の影響で句作を始めた。この辺りの事情は花田俊典「二十歳の周囲 真(ママ)鍋呉夫素描」(『敍説Ⅱ』敍説舎、一九九〇・八)に詳述されているが、同文章によれば眞鍋の父甚兵衛は福岡で質屋を営む親や兄を嫌い、大正八年に杭州に渡り日本租界で織機販売を行っていたという(そのため福岡の母の実家で生まれた眞鍋呉夫も同年末には杭州に渡っている)。甚兵衛は一七の頃から句作を始め、子規門下の俳人矢田挿雲が福岡で『かがり火』を主宰していた頃、若干一九歳にして「挿雲門下の四天王」と呼ばれ、句友には吉岡禅寺洞や清原拐童らがいた。さらに『同人』(青木月斗主宰)、『天の川』(吉岡禅寺洞主宰)には夫婦で同人として参加、『ホトトギス』にも夫婦で投句している。なお父の俳号(天門)と母おり子の俳号(織女)は月斗の命名によるものであったという。『花火』所収の句についてはすでに新興俳句からの影響が指摘されているが、眞鍋が「市井の俳人」と呼ぶ天門と禅寺洞との関わりを含め、このような家庭に眞鍋が育ったことをまずは確認しておきたい。

さて、大正一五年に母とともに帰国した眞鍋は福岡周辺の親戚の家を転々とし、やがて日本足袋の外国駐在員として父が赴任していた漢口に呼び寄せられることになる。花田は『花火』の「あとがき」にある「故国を遠くはなれ、荒芒たる長江の赤ちやけた流れのほとりを移り住み、うたがかれらの城砦(とりで)であった」という記述について、「具体的にはこの漢口時代あたりを想起してのことだろう」とし、さらに「杭州時代の日々をかさねあわされてもいただろう」と指摘している。

ところで、花田が前掲文において「あとがき」の「むかし、息子とその父母がゐて」という語り出しに着目し次のように述べているのは興味深い。

自分の現実の人生に対するこのようなスタンスは、たとえばちょうど矢山哲治が連作詩「お話の本」の「Ⅰ 序」を「むかし昔、この町に、をとこの子が居つた」と書き出すスタイルと一致している。

一九三一年、眞鍋呉夫は阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎らと雑誌『こをろ』(三号までは『こおろ』)を創刊した。『こをろ』の中心的存在であり、創刊の二年後にわずか二四歳で夭折した矢山哲治は眞鍋に少なからぬ影響を及ぼした詩人であった。『花火』に序詩を寄せているにもかかわらず、眞鍋の俳句作品と矢山との関係が具体的に論じられることはあまりなかったが、思うに、それは矢山哲治自身に彼を語ることの難しさがつきまとうゆえでもあったろう。しかし眞鍋と矢山の親交は決して見落とされていいものではない。たとえば矢山は次のように語っている。

言はば、私達のこの「場」は、孤独に耐へる夫と、孤独に耐へる妻とが支へる、冬なら、暖炉がぱちぱちはじいてゐて、夏なら、夕暮のひつそり降りてくる居間だ。(略)この居間は、奥深い一枚の夜空、私達は花火だ、無数の花火のそれぞれのほくちは、私達のとりどりの個性だ、生だ、魂だつた!
秋空に人も花火も打ち上げよ。(「友達」『こをろ』一九四一・三)

末尾に付されているのは同年九月にこをろ発行所から刊行されることになる眞鍋の句集『花火』の巻頭句である。この一文の題名にもなっている「友達」とは「こをろ」に集まった青年たちにとって重要な意味を持っていた。「同人」ではなく「友達」と呼びあった彼らは、「友達」という「最小単位の範囲で、おのれの繭をはぐくんでいた」(紅野敏郎「「こをろ」の意義―昭和十年代文学再検討―」『文学』一九七七・二)のであった。一方眞鍋は入営先から次のように書いたことがあった。

かうして僕らの間は相へだたつてゐたが、僕らの間には何らの距離感もなかつた。いつの頃からか僕は、目には見えないが落着いた親しい一ツの広間を持つてゐて、そこでは逢ひたい時に逢ひたい人と逢ふことが出来た。かうして、僕は矢山にも逢ひ、他の友達ともいつでも逢つてゐた。(「矢山哲治の死」『こをろ』一九四三・六)

『こをろ』に参画した青年たちは次々と召集を受けていく。眞鍋もまた例外ではなかったのである。ばらばらになっていく「友達」であったが、矢山が「居間」と呼び眞鍋が「広間」と呼ぶ場所で彼らは「いつでも逢」うことができたのだった。『こをろ』とは、だから単なる文学雑誌の呼称ではなかったのである。

わが裡の枯野に誰か佇つてをり

『月魄』所収のこの句はむろん芭蕉の句をふまえてのものであろうが、たとえばここで「佇つて」いる「誰か」を、矢山をはじめとする「友達」であるとするのはあまりに悲しすぎるだろうか。しかし彼らの「居間」も「広間」も、その実「枯野」へと隣接するいかにもあやうい場所に築きあげられたものではなかったか。「秋空に人も花火も打ち上げよ」に象徴される彼らの情熱もロマンチシズムも、そのあやうさゆえに際立ったのではなかったか。

一九四四年、一四号でついに終刊となった『こをろ』であったが、その復刻の折、眞鍋は「「真にデモクラチックな自由と自治の集団」という心情的な志向も、時局の急迫に押しつぶされて、あえなく拡散せざるをえなかった」と回顧しつつ、「なかんずく昭和十八年一月二十九日、「こをろ」の終焉と前後して轢死した矢山哲治の次のような詩に、「理想の戦争」という絶対的な矛盾によって両足を断ち切られた「鳥」の、つまりは「『こをろ』の光栄と悲惨」を如実に読みとられるであろう」と述べている(「羽ばたきの音―『こをろ』復刻版の刊行に際して」『こをろ通信』言叢社、一九八一)。ここで眞鍋が引いているのは矢山の「鳥」(『こをろ』一九四一・九)という詩であった。

わたしは鳥
もう一羽の鳥によびかける
 
日が暮れるまで
羽がくたびれるまで飛んでゐようよ
 
わたしは鳥
もう一羽の鳥がよびかける
 
夜が明けるまで
羽が休まるまで翔けてゐませう

そして眞鍋は「しかも私の耳には、以来三十数年の久しきにわたって、この足を断ち切られた「鳥」の悲痛な羽ばたきの音が聞こえ続けている」と書く。

羽搏(はばた)きのかなしきまでに冴えかへる   『花火』
なほ翔ぶは足を切られしわが鷹ぞ   『雪女』
わが鷹の翔(かけ)ればきざす眩暈(めまひ)かな   同
煙突となりて雁聴くさびしさよ   同
比良八荒われは衢(ちまた)に落ちし雁   同

月の前肢をそろへて雁わたる   『月魄』

眞鍋の三句集を通読して気付くことはその語彙の少なさである。「雪女」は言うまでもなく、「蛍」「傀儡」「桃」「月」など同じモチーフを飽くことなく繰り返し詠む。鷹や雁といった鳥もまた眞鍋が好んで詠んだもののひとつだった。「羽搏きの」は矢山の訃報を受けて矢山の「鳥」を踏まえて詠んだ句。「なほ翔ぶは」は折笠美秋の「なほ翔ぶは凍てぬため愛告げんため」を踏まえたものであろう(眞鍋には折笠の同句に和した「春あられ折笠美秋なほ翔ぶか」がある)。「煙突と」は「たえて煙を吐かぬ元「松の湯」の煙突を夢見て」という前書を付す。また「月の前」の句については、高山れおなが「三島由紀夫が俵屋宗達の魅力を評して、装飾性と写実性とは楯の両面であると云々した言葉を連想させる秀逸」と評している(「雪女と月光 眞鍋呉夫句集『月魄』を読む」『俳句空間 豈weekly』二〇〇九・三・二九)。成立事情も内容も異なるこれらの句はしかし、先の眞鍋の文章をふまえるとき、また違った趣をもって立ち現われてくる。これらの句に共通するのは残された者、すなわち生者としての位置からの憧憬さえいりまじった仰望ではないだろうか。そしてここに矢山をはじめとするかつての「友達」への思いを想起することは無理なことだろうか。しかし実際、「羽搏きのかなしきまでに冴えかへる」と詠んだ眞鍋は、その三十数年の後に至ってもなお矢山の「鳥」を思い返しているのだ。

鷹老いて吹きわけらるる胸毛かな

『月魄』にはこうした句もある。もはや「鷹」は老いた。しかしその「鷹」をかつての「わが鷹」以上に近しく感じるところにまで眞鍋はやってきたのだ。それはまた眞鍋が「わが裡の枯野」に「誰か」を感じることのできる場所にようやくたどり着いたことを意味してもいよう。「ほぼ同年代の鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄らが戦争体験や戦死者への眼差しを変化させながらも書き継いでいる期間」、まさにその期間において眞鍋もまた自身の戦後を生きていたのである。思えば、「広間」から「枯野」への移行は眞鍋の戦後そのものの表象ではなかったか。


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