俳句時評 第64回 山田耕司

「崖っぷち」と「ひとりわかり」

残暑が厳しい。
こんな時には、痛快な句集を読むことにして、手に取ったのは嵯峨根鈴子『ファウルボール』(2011年7月31日/「らんの会」発行/2400円)。

自選句として帯には以下の句が並ぶ。

てのひらのどろんと甘き山火かな
ハブラシの私物一本さへづれり
鉛筆で塗り潰したる油照
貝柱そこで何をしてをるか
菊に綿被せて大阪道修待ち
草の絮ファウルボールを追ひかけて

「あとがきに代えてエッセー」という文章の後に、「ちかごろ」という短文があり、そこで嵯峨根鈴子はこう述べる。

「俳句の崖っぷちを覗いてみたい」と言うのが望みであるが、その途中の日々にこそ俳句はあるのだと思える。

珍しくよく晴れた初夏の朝、ハブラシ一本を私物として父は施設へ入所した。残された母はますますちぐはぐになりつつある中、私は俳句をひっぺがしたりからかったり、時には裏切ったり裏切られたりしながら、たっぷり道草を食っている。どこかへ辿り着けるのだろうか?

なるほど。
俳句に「崖っぷち」というものがあるならば、それはぜひとも覗き込んでみたいものである。

「崖っぷち」というものへと近づこうとする嵯峨根の作品をもうすこし見てみよう。

人体のここが開きます浮いてこい
たましひを入れ換へてやる浮いてこい

この「浮いてこい」とは、誰に対して命じているのだろうか。
そこがわからない。
(「たましひを入れ換へてやる」という措辞から推察するに、<無意識な領域としての身体をあえて意識する>ことを「浮いて」と表現しているようでもあるが、こういうヨミはあまり面白くはない。)
要するに、作者しかわからないような表現が提示されている、というわけである。
これを仮に「ひとりわかり度が高い作品」と呼んでみることにしようか。

白鳥のどこか煮崩れしたやうな
みづかきの開ききつたる春の土
もうだれのものでもなくて雪をんな

ここらへんの作品ならば、「おお、面白い着眼点だな」ということで読者は自分のヨミと折り合いを付けることも可能であろう。「ひとりわかり度」は上述の句と比べてみると、かなり低くなっている。
わかりやすい句かと聞かれたら、必ずしもそういうことはできない。しかし「ひとりかわり度の高い句」ほど「遠く」はないのである。
「浮いてこい」が、主語を欠落させていることもある。無季であることも少なからず読者の寄り付きどころを減じさせてもいるだろう。ともあれ、定型であること以外は、「俳句」から逸れてしまっていると感じる読者が多いのではないだろうか。
俳句がその「崖っぷち」を目指そうとする場合、句は「ひとりわかり度が高い」状態へと近づいていくのであろうか。
今回の時評の考えどころは、コレ。

「俳句の領域を検証する」、こんな言い方にすると「崖っぷち」よりは、かなりまじめに見える。

さて、「領域を検証する」をかなり単純に行うとしたら、通時的、共時的なチェックを営みことになるだろうか。

個人的な結論を先に言うと、この「通時的、共時的なチェック」によって<領域が明らかにならない>ことを以て、俳句は書き続けられていく可能性を持つのである。別の言い方をすれば、俳句とは「いまいちよくわからないところがある」ことにより、「ひょっとして次の一句こそが俳句の<典型>になるかも」という期待が下支えをして、創作に向かわせることになるといえるのではないだろうか。

現在の俳句の姿が、近代的な改革のもとに成し遂げられたという考え方に従うことにしよう。
近代的な改革の様相を国家成立のプロセスになぞらえてとらえてみると、領域とは、①先行する価値観を否定し別の価値を生み出すこと ②外部との違いを際立たせること により認識されるものであるとおおむね推察される。日本の近代社会にあてはめてみると、①は「封建社会からの解放」であり、②は「欧米列強との相対化」を指す。いきおい、①は新しい価値観として「民主主義」を標榜し、②は相対化の根拠としての「ナショナリズム」を掲げることになるだろう。
民主主義とナショナリズムは相反する考え方ではなく、むしろ近代的な改革においては同根の思想と仮定してみることにしよう。

明治期において江戸俳諧の何が否定され、何が継承されたのか。
そのことを具体的に検証している碩学は少なからず。そこに言及しはじめると長くなる。
さておき。明治期の改革者がどのような意識を抱いていたかではなく、現在において、俳句はどう改革されたかのみに注目してみよう。
⑴ 共有域である季と形式の約束をもとに<閉じたグループ>で作品を成立させていた形態が俳諧の連歌だとすると、正岡子規以降は<おひとりさま>が作品を生む単位となった。
⑵ 知的な情報を共有する座の内部交流という側面から、誰でも作り誰でもたのしむことができるものとして「民主化(民主化を大衆化とほぼ同義とするならば)」された。

正岡子規も読まれるし、芭蕉も読まれるのが現代である。一般的に、正岡子規も芭蕉も同じ「俳句」という領域で教科書に掲載され、書店の同じコーナーに並ぶ。実のところ、通時的な改革は、先行する価値観を否定するというよりは運用のスタイルを改造することだったのではないか。すくなくとも、「民主化」のほうはうまくいった。これはわれわれのよく知るところである。「俳句」の通時的な領域は、あいまいなままに。

<外部との違いを際立たせる>の方はどうだろうか。 
たとえば短歌、たとえば川柳とどのように峻別されたのであろうか。
「民主化」のプロセスは、詩的な傾向の違いなどというとらえがたいものよりも客観的な約束事の差異として<ジャンル>の境域を識別することを求めたことだろう。<誰にでもわかること>として分ける必要があったということだ。それが「定型」であり、「季語の有無」であったのだろうけれど、これがあくまで「わかりやすさを求めた上の大雑把」であることは、いうまでもない。そして、こうした「大雑把」のスキマがあるからこそ、消費社会の拡大に伴って作品の多様化がもたらされる事態につながっているのが現代なのではないだろうか。
ナショナリズムという視点からもうひとつ検証するに、明治期には、言葉が一元化の方向にむけて収斂され「国語」という看板を与えられたことが挙げられよう。ここもまた碩学少なからず。
さて、その肝心の「国語」は本当に一元化されたのであろうか。
俳句の世界を見るにあたり、歴史的仮名遣いと現代仮名遣い、歴史的文法と現代標準文法、文語と口語、それらが渾然と入り交じっている。<スタイルの標準化>を国家単位で成し遂げることをナショナリズムととらえてみれば、俳句はナショナリズムの及び方が、なんとなく中途半端なのである。国家の一方的な押しつけを拒否してきた抵抗の歴史というものが特記するほどあるわけでもなく、かといって、相対的に「地理的に限定された言語」を擁護する運動が深刻に発生しているわけでもない。

まとめていうと、近代的な境域としての「俳句」とは、あいまいなもの。
あいまいだからこそ、「俳句って何だろう」という問が繰り返されることともなる。
その問の数だけ、新しい作品が生まれる可能性がある。
これが、山田の個人的な見解。

で、「崖っぷち」。

<おひとりさま>を創作の単位とするのが、近代以降の俳句の傾向だと仮定するとして、読者のスタイルはどのように変化したのであろうか。
<消費社会の中での大衆化>、これを仮に現代社会の特徴としてみよう。そこに、<おひとりさま>の創作を流し込んでみる。そこには「自分と似たような人」がたくさん漂っていることだろう。「自分と似たような人たちとともに共通の約束事を繰り返す」、そのことに安らぎを覚える人たちが多く生まれるのは、個々の生き方が社会の中で疎外されていることの反動であるのかもしれない。ともあれ、俳句がこうした<安らぎ>と不可分であると感じるのは、作者としての領域ではなく読者としての反応から生まれてくる意識なのではないだろうか。私たちは、他と違う作品を望みつつ、他と世界を共有している感覚からはなれられない傾向にあるようなのである。
ここに、反作用として、「他と世界を共有することへの不安」、もう少し追いかけていうならば、「他と世界を共有していることに安らぎを覚えることで自らを見失うような事態に陥ることへの不安」というものが生まれても不思議ではない。

こうした傾向が、ときに「ひとりわかり度が高い」作品として目の前にあらわれることもあるだろう。それは、歴史的境域の検証やら言語表記の実験やらとは質を異にする「崖っぷち」の姿であるといえるのではないだろうか。

嵯峨根鈴子『ファウルボール』は、実に面白い。「崖っぷち」について考えさせられたことを抜きにしても、何度でも楽しく読める句集だと思う。

歴史問題と領土問題。昨今、特にニューズのトップ事項を飾る。
日本人は、そうした問題をどことなくあいまいにしておくことを望んでいるようにも見える。
そうした感慨が、今回の時評のテーマと無関係だとは思えない。

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One Response to “俳句時評 第64回 山田耕司”


  1. 山田耕司
    on 8月 31st, 2012
    @

    ◇ 本文内容について読者の方からご指摘がありました。
     <「浮いてこい」とは「浮人形(夏)」のこととしてすんなりうけいれることができるのではないか>というものです。
    まことにその通りだと思います。
    例句もいただきました。

    浮いてこい浮いてこいとて沈ませて 京極杞陽

    浮いてこい浮いてお尻を向けにけり 阿波野青畝

    ご指摘ありがとうございます。山田耕司

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