俳句時評 第66回 外山一機

何の「値打ち」もない-神野紗希句集『光まみれの蜂』

『円錐』五四号(二〇一二・七)で今泉康弘が神野紗希の句集『光まみれの蜂』を評している。その冒頭に置かれた次の言葉は、思うにこの句集の評としては至言ともいえるものであった。すなわち「同書は良い句集である。多くの人が褒めるだろう。僕も褒めたい」(「蜂の旅人-神野紗希句集『光まみれの蜂』評」)。「多くの人」が「褒め」てくれる句集とはどのようなものであろう。それは単に好意的に遇されるとか、讃美を受けるとかいうこととはちがう。そこには相手をいくぶん睥睨するような視線が介在してはいまいか。裏を返せば、褒めることができる句集とは、そこに展開されている表現が所詮は想定内のそれを越えることのない句集であるということであろう。だからその意味で僕は『光まみれの蜂』が優れた句集だとは思わない。しかし僕は、神野紗希が作家として劣っているとは微塵も思わない。むしろ僕は、今泉が「褒めたい」などという言葉を-たとえそれほど重要な意味合いで用いていなかったとしても-かけてしまうような事態を演出した神野紗希の身振りに今更ながら驚いている。

若手俳人のうちで神野ほどマイクが自分のところにまわってくる機会の多い者は少ないだろう。それは神野のもつバランス感覚の良さゆえのものである。神野の俳句表現や俳句評論は誰にでも理解できる。彼女の書くものは誰にでも理解できるから、一方では誰からも相手にされないのだとも言える。「多くの人」が「褒める」句集を纏めることができたのはこの資質によるところが大きい。神野は決して畏怖されない。

たとえば神野はいま自身が野口る理や江渡華子と三人ではじめたウェブマガジン「スピカ」で一ヶ月に渡って毎日一句ずつ俳句を発表しているが、その作品に俳句表現の未来を感じることは難しい。それは『光まみれの蜂』の句においても同様だ。

オリオン座木の実使って説明す
ハンカチの隅に刺繍の小鳥かな
引越しの最後兎を抱いて乗る
猫の子の集まってくるタオルかな
さざなみのひかり海月の中通る
蟷螂の登りゆくわれ木のごとし
雪降るや逢瀬というは獣にも

たとえば今泉が「好きな句」として挙げているこれらの句は見事なまでに何事もなしていない。先の句集評のなかで今泉は同句集について「文句のつけようがないのだけれど、ぼくには、さらに望みたいものがある」として次のようにいう。

この句集からは、現実や社会、世界に対しての違和感、というものがほとんど感じられない。この句集の中では、世界はとても居心地の良いものとして存在するように見える。世界の中でうまくやれているという空気がある。(略)ぼくの思うに、芸術とは究極において、生きることを肯定するものである。そして、社会がまだまだ未熟で、矛盾したものである以上、人は、よく生きようとしたとき、社会への違和感を感じざるを得ない。その違和感を様々な形で表すこと、それが芸術の一つの使命であるとぼくは考えている。

『光まみれの蜂』に対してこうした印象を抱く者はひとり今泉のみではあるまい。同句集は今泉の指摘する点においてたしかに物足りない部分があるようにみえる。この意味において神野の句は何事もなしていないと思う。しかし僕たちは、「社会がまだまだ未熟で、矛盾したものである」という認識を、それ自体非常に正しいものであると認めつつもそれを共有することをあえて躊躇する者を知っている。それは神野紗希であり、山口優夢であり、谷雄介である。いったい「社会がまだまだ未熟で、矛盾したものである」とは誰の言葉であったろう。彼らの俳句表現を支えている「未熟」な認識によれば、社会は十分に成熟していて、世界はむしろ肯定の対象である。どういうわけか彼らよりもいくぶんか先に生まれた人々は社会を否定的にとらえがちだったが、彼ら自身の前においては「世界はとても居心地の良いものとして存在する」。

コンビニのおでんが好きで星きれい   神野紗希
ビルは更地に更地はビルに白日傘   山口優夢
先生の背後にきのこぐも綺麗   谷雄介

これらは決して諧謔ではない。

齋藤愼爾は瀬戸内寂聴との共著『生と死の歳時記』(法研、一九九九)で山本健吉の言葉を引いている。

異郷で生活していたとしても、夜中にふと瞼にふるさとの景色を思い浮かべたとして、地蔵がいない村なんて、もうふるさとではない。ふるさとは、子供の時分に、自分を抱擁してくれた、あたたかい山や森や川である。それはうぶすなの神やお稲荷さんや野の佛や、精霊達の棲む風土である。

たとえばこのような精神的風土の対極にあるのが山口優夢であろう。そして、山本のいうような風土を背負った者がいることを理解しつつ-かつそれを十分に肯定しつつ-一方でその対極にある存在にも目を配ることができるのが神野紗希であろう。今泉は「コンビニのおでんが好きで星きれい」について「俳諧味があり、おしゃれすぎない。そういう好感のもてる上手さにより、現代社会、消費文化、そしてその中でそれを享受することを肯定している」としているが、僕も同感である。今泉はまさにこの点に物足りなさを感じているが、僕はまさにこの点にとどまることを志向したところにこの句の価値があったのだと思う。

神野が大学院での研究対象としているもののひとつに三橋鷹女があるが、鷹女はかつて「何を詠いたいか」という問いに「孤独」と答えた。たとえば神野はこの回答を理解しているにせよ共感しているわけではなかろう。鷹女のいる場所から発信されるなにがしかが俳句表現として結晶する時代は終わった。今日、俳句表現の新しい展開が見えなくなったというのは、たとえばそういうことなのだ。そう思うとき、神野がかつて『新撰21』(邑書林、二〇〇九)で述べていた言葉は僕の前にふいにうそ寒い印象で迫ってくる。

よく使う駅に、燕が巣をつくったので、行き帰りに、ついつい眺めてしまう。家に帰って、机に向かうと、なんとなく燕のことが思い出されて、俳句をつくりはじめてしまう。結局、できあがる俳句は、全然燕とは関係がなくて、一本の木の話だったり、鯨のことだったりするのだけれど、ゆるやかにつながっているような気もする。そんなふうにして、俳句をつくっている。

この明るい言葉は何だろう。僕はこの言葉を鷹女の回答以上に恐ろしいものに感じる。こんなにも明るい主体からはおそらく何も生み出されないと思うからだ。しかしそれが何だというのか。神野はこれからも彼女の手の届く範囲で手の届く範囲の人に向けて俳句をつくるのであろう。だから神野に鷹女に冠されるそれと同じ意味での「天才」を期待するのは間違っている。神野紗希は何も生みださない。

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One Response to “俳句時評 第66回 外山一機”


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    on 11月 6th, 2012
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