俳句時評 第68回 山田耕司

不機嫌な体温

〈安井浩司「俳句と書」展〉が開催される。

10月8日(月曜日・祝日)~14日(日曜日) 会場は銀座ギャラリーノア

主催 金魚屋プレス日本版

安井浩司の俳句の裾野に、もしや新しい人が立つとすれば、そういう方々のために、安井浩司の体温を感じさせる「物」を残しておきたいと思ったんです。いわゆる「遺品」です。遺品を残したいな、という思いになったんです。

『安井浩司「俳句と書」展』記念インタビューより

http://gold-fish-press.com/archives/5690

今回の企画に向けての安井浩司の発言である。

とりあえず、「体温」を、作者の身体を感じさせるものとして解釈するならば、安井浩司は、戦後の俳人の中でもかなり「体温」を感じさせない作家である。

言葉に対して、おのが身体を通じた感性を以て接するというよりは、知的な構想の基に一定の方法において出逢おうとしているのが安井浩司である。俳句作者として、初期から今日までそれはほぼ一貫している。たまたま旅先で見たことを見たままにつくる、などというのは安井浩司ではない。密室で誰とも会話すること無く、あえていえば自らの身体とも会話せずに、天や虚空などと俗なるものとの交錯を呼び込もうとしてきた。作者そのものが暗室に入っていて、世界に穴を開けてはそれが俳句形式に念写されることを取りはからう作業にも似ている。首からさげたカメラで世界を記念に切り取って帰るというような「俳句形式を道具として扱う」むきとは一線を意識して画してきた、そんな作家が安井浩司。

安井浩司の自選句金魚屋のHPには安井浩司論も各種掲載されており、〈安井浩司〉まつり風な展開に。)

作家の人生のドラマや、身体条件、「お人柄」としてくくられる社交性など、どれもが安井浩司を批評する場合に「そんなことはどうでもいいんじゃないの」といわれる可能性がある。そんな安井浩司が「『体温』を感じさせる『物』を残しておきたい」と思った動機は、なんだろうか。

〈「体温」を感じさせる物〉
これと対になる言葉は何だろうか。

〈「体温」を感じさせない物〉
まあ、こういう物は探すに苦労しない。
現代の消費社会の中で流通するのは、無名化され除菌されたモノたち、あるいは交換可能で消費可能なスタイルに解体された「ブランド」。プライベートな身体性が及ぶモノとは、まあ、対置する存在ではあろう。しかしながら、安井浩司が、ことここにおよび、現代の消費社会の傾向に対して批評的な態度を示すと考えるのは、あまり現実的ではない。面白くない。

〈「体温」を感じさせない「情報」〉
俳人は、おおむねこうした「冷えた言葉」を嫌う傾向があるようで、季節を表す言葉を共有することを以て、ふんわりとした「ウチワ」圏を確認したがるところがある。いうまでもないが、季語の存在が「ウチワ」を形成するのではない。ウチワ感を得たいと願う傾向が、情報に人肌のぬくもりを与えてしまうのであり、そうしたぬくもりをわかちあうことにおいて、人としての精神修養が可能であるかのような錯覚が生まれやすいのが、俳句的状況、ということもできるのではないだろうか。であるとするならば、ウチワ的な安らぎを遠ざけてきた安井浩司は、あえて〈体温を感じさせない情報〉を以て作品を書こうとしてきたことになる。
安井浩司は「前衛俳句作家」と呼ばれている。「前衛」とは、どのようなことを指し、どうもてなされるべきであるのかが今ひとつわからない看板である(実のところ「○○俳句」という看板のどれもが明確な領域を持ってはいないのだけれど)。ともあれ、「異端」「破壊者」という意味合いでもなく、「最新」という側面でもなく、「習慣的な体温になじまない」という傾向に基づいて「前衛」をもてなそうというのなら、安井浩司はまさしく「前衛」であり、加藤郁乎も高柳重信もまた「前衛」である。ということで、墨書展の動機は〈体温を感じさせない情報〉への批評行為でもなさそうである。

〈「体温」を感じさせる「情報」〉
たまたま手元に二冊揃っているのが、月刊『俳句界』9月号と月刊『俳壇』10月号。

『俳壇』の特集は「星の歳時記」。

一般に「○○座生まれ」と呼ばれる星占いの星座は「その人が生まれた時に太陽が位置していた星座」を意味する。そして、その星座がその人の正確に影響を与えるというのだが、星占いの科学的根拠は認められない。日常生活の娯楽ととらえ、俳句・短歌・詩に詠むことで人生を楽しみたい。(p62)

企画に対しての編集部からのメッセージである。各星座をひとつずつ俳人が担当して作品を3句とエッセーを寄せている。

それぞれの句やエッセーに対する鑑賞は割愛。

「人生を楽しみたい」

編集部の言葉の屈託のなさは、そのまま読者の期待と地続きであるだろう。情報を共有して楽しむことで感じる人肌のぬくもり。このぬくもりこそが俳句をめぐる習慣的な体温といえようか。

『俳句界』の方の特集は「俳人都市伝説」。

正岡子規 病床の子規は大食いだった?
原石鼎 石鼎は無免許で医師をしていた?
石川桂郎 桂郎は生活保護を受けていた?
加藤楸邨 楸邨は弟子たちに選者交代をせまられた?
飯田蛇笏 なぜ子規賞、虚子賞ではなく“蛇笏賞”なのか?
坪内稔典 坪内稔典の子規研究のきっかけはパチンコの賭けだった?
柿本多映 柿本多映の先祖は歌聖・柿本人麻呂?
伊達甲女 血筋は伊達家、水戸徳川家?

書き出していて、あまりのどうでもよさに卒倒するほどである。これらのどこが「都市伝説」なのか。ともあれ、ゴシップ。作品の批評でもなく、形式へのチャレンジでもない。俳句総合誌が、もう、こんなところまで打ち出さなければならないほど、俳句をめぐる環境はヘタレているのだろうか。

それとも、「人生を楽しむ」という行為とは、俳句という文芸に於いてはこうしてあらわれるのがサダメなのだろうか。

『俳句界』9月号の第二特集は「俳人はなぜ忌日を詠むのか?」。

さて、なぜか。
これは、かなり奥が深いテーマではある。
誌面で語られていることをほったらかしにして、俳句総合誌の「読者のもてなし方」を上記の企画に即しながら考えるとしたら、忌日という「情報」を共有し、ウチワ感をもりあげることの一策なのであろうか。

忌日は、季語と位置付けられることで、俳句を作る上で得られる他の作者との共有感のヨスガとなる。別の角度から見れば、忌日になることで、亡くなった人はほどよいぬくもりを帯びた、扱い可能な「情報」と化すともいえよう。
それも、悪くはない。「人生を楽しむ」という点においてとらえるならば。

さて、安井浩司にとっての「『体温』を感じさせる物を残す」とはどういうことであろうか。
本人の弁は、さて措くとして、「安井浩司」的な一貫性から考察するに、それは「体温を感じさせる情報」として平準化され消費のぬくもりの中に取り込まれないようにするための「異物」作りとして受け取ることができるのではないだろうか。それは「人生を楽しむ」という行為からも一線を画すことでもあろう。俳句を安らぎとともに受け入れることではなく、それは俳句なのか、という問いかけをつねに吐きつづける行為の延長でもある。
揮毫でもない。美術品の作成でもない。一句一句にまぎれることのない肉体を授けるかのような、そんな「異物」作り、として墨書を為すことができるのは、現代、生存する作家でいえば安井浩司をおいて他はないだろう。
勝手な認識ついでにいえば、こうした類の作品は、美術作品として公共の場に掲げられて共有されるよりは、個人が所有することになるほうがよろしい。床の間に禅語や論語のように掛けて味わったり、その前で安らいだりするのもふさわしくはない。ひそかに広げては、表現をすることの不安を突きつけられ、いささか不機嫌な面持ちで対座するに如くはなし、そう思うのだが、いかが。

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