戦後俳句史を読む (21 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(4) –

深谷義紀 ①

  • 1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

深谷:
 
(1)ヒューマニズム
 
遷子作品に一貫して流れるのは、そのヒューマニズムの発露であろう。もちろん他の作者でも、心の善なる側面が作品のモチーフとなることはままあるだろう。しかし遷子ほど、それを透徹した作家はいないのではないだろうか。こうした傾向の作品は一歩間違うと、あざとさ、押し付けがましさ、あるいは臆面のなさなどが前面に立ってしまいがちであり、作品の裏側に隠して詠むのが通常の作句パターンであろう。もっとありていに言えば、気恥ずかしい気分が先に立ってしまう。それを乗り越え、そうした心情を中心に据えた作品を多くなしたのは、遷子の生真面目さだと思う。

(2)地域性(地方色)
 
もうひとつ、「地域性(地方色)」も挙げたい。遷子は佐久帰郷後、専らその土地での生活(含む医療行為)を句作の対象とし、そのことにこだわり抜いたと思う。そして、そのこだわりから、佐久の地やそこに居住する人々への愛憎半ばする心情が生まれたのだろう。

(3)文体
 
自身の心情を平明に述べた作品が多く、あまり捻った詠み方はしなかった印象が強い。

  • 2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

深谷:遷子は、馬酔木「高原派」という呼称で、堀口星眠・大島民郎などと一括りにされることが多いように思えるが、その作風は彼らの純粋自然賛歌とは大いに異なる。
また、所謂「社会性俳句」の範疇に入らないのも明らかだろう。句作にあたって、たとえ社会的な問題を含む題材を採り上げたとしても、それはあくまで、1.で述べたヒューマニズムの発露が成せるものであり、政治的イデオロギーの匂いは全く感じない。その点は、次の3.で述べるとおりである。

さらに地域性(地方色)がその作品に色濃く反映されることはあっても、所謂「風土俳句」作家とも異なる。彼らは青森や岩手の作家たちを中心に、大野林火の慫慂を受け、謂わば戦略的に「風土性」を全面に展開した側面がある。それに対して、遷子はあくまでその作品の素材を自分が居住する佐久に求めたに過ぎない。

  • 3.戦後の政治と遷子について述べよ。

深谷:多少の政治的言辞を含んだ作品もないではない(「ストーブや革命を怖れ保守を憎み」など)が、当時(昭和36年)の社会的・政治的状況に照らせばごく常識的な感覚であり、取り立ててどうこう言うべきほどのものではないだろう。遷子が特定のイデオロギーに傾いた様子は見受けられない。また、税務署に対するやや皮肉めいた視点、あるいは核実験や「プラハの春」鎮圧に対する怒りは、やはりヒューマニズム的な観点から理解すべきものと考える。

  • 4.戦後の生活と遷子について述べよ。

深谷:謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか。また、農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる。

  • 5.家族・家庭と遷子について述べよ。

深谷:私的な要素であるため「戦後俳句史」を語るうえでは適さない部分かも知れないが、敢えて言えば戦後の家庭像がありのままに描かれており、遷子の実直な人柄があらわれていると思う。

戦後俳句を読む(21 – 1) 目次

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