戦後俳句史を読む (20 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(2) -

原雅子

  • 1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

:句集を通読しての第一印象は、ずいぶんさっぱりした文体だなということでした。共同研究の中でもしばしば散文的という指摘がなされましたが、短詩型の大きな武器になる連想作用や技巧的表現による膨らみといったことに凭れかからない句作だったと思います。

このことは想像の領域ひいては夢まぼろしを詠まない姿勢に通じてゆきますし、風景句においては輪郭のくっきりした描写を、そして社会的題材を詠んだ場合、世の「社会性俳句」の散文化と一見似通った相貌をも見せたようです。

遷子は題材によって詠みぶりを変えるというような器用な俳人ではなかったのでしょう。

  • 2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

:「戦後俳人」をどのような括りで捉えるのか、時期をどの辺に定めるか分かりませんが、戦後俳句の流れは「社会性俳句」の全盛から前衛俳句、それらの後もしくは途中から個々の方向へと拡散していった印象がありますが、遷子はその生活基盤を地方性の濃い佐久に置いていた関係上そこでの風景や生活を実直に詠んでいった訳で(高原派の一時期はあったにせよ)、個の一つという以上には見えてきません。

  • 3.戦後の政治と遷子について述べよ。

:誠実な良識的知識人。「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」がそれを端的に表していると思います。

  • 4.戦後の生活と遷子について述べよ。

:(無回答)

  • 5.家族・家庭と遷子について述べよ。

:興味ありません。

  • 6.自然と遷子について述べよ。

:遷子の風景句に興味を持ったのは、自然への対し方が、初期と晩年では違うように感じられたからです。

初期の外側から描かれた風景が、次第に内面と重なってきたーー自己と一体化したーーと言えばいいでしょうか、その変化の過程に興味を惹かれました。

  • 7.職業・仕事と遷子について述べよ。

:もし彼が地方の開業医でなく研究者の道に進んでいたらどうだったでしょう。仮定の話は無意味ですが、さして積極的に人的交流を求めたとは思えない遷子の、人間的な幅はかなり狭められていたかもしれません。当時の地域医療従事者としての生活は否応なく他者との関わりをもたらした筈で、それは遷子の意識に影響を及ぼしたでしょう。

作品において人間を詠むと言う短絡的なことではなく、自然に対する態度にも反映されたのではないでしょうか。孤独が深まると言うことも含めて。

  • 8.病気・死と遷子について述べよ。

:戦地での死はいわば突然に来るもので、直前まで生の側に身を置いていることになりますが、病気の場合は一歩一歩死に近づく、自分だけの孤独な心の揺れがあります。

つめたく言えば人間は迷うものだと言うことでしょうが、病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分かりません。

原句「何も残さず」から「微塵となりて」の推敲には生身の肉体を捨て去った印象があるのですが、言葉によって心身の昇華を願った結果でしょうか。

  • 9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について。

:(無回答)

  • 10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

:いまだに捉えきれずにおります。

戦後俳句を読む(20 – 1) 目次

戦後俳句を読む/「女」を読む

戦後俳句を読む/それぞれのテーマを読む

相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(2)

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