戦後俳句史を読む (20 – 2)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(3) -

中西夕紀 ①

  • 1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

中西:俳句の姿に人柄が反映されて、人生をそのまま描こうとしている俳句は古武士のような風合いがあると思う。そのことは創作、虚構という俳句における遊びをしていないことを示す。

俳句は気持ちを直接には表現しないのが一般的だが、遷子の場合、風景句以外は、気持ちを詠ったものが多く見受けられる。特に『雪嶺』では、社会を詠った句の中に、「憎む」「怒る」というあまり俳句では見かけない直情的な言葉が使われている。思ったことを散文のまま句形にして、きちっと納めてしまう技があるように思う。文体としてあまり練れていないように感じられるのはこのためかと思われる。

揺籃時代は、秋桜子を真似た馬酔木の人らしい優美な作品であるが、戦争中から社会に目が向いくる。それが顕著になるのは『雪嶺』の時代で、医師俳句を展開し、独自の視座を持って描いている。遷子が遷子らしい文体になった時期である。『山河』になると、療養俳句という波郷を始め多くの先行する俳句作品があったが、自身の書かざるを得ないという欲求のもと、死へ向かう自身を題材として描いているものと思う。死は一度限りであれば、誰にとっても人生最後のドラマになるわけで、創作のなかった遷子の、創作意識をこの時期に見るように思う。

  • 2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

中西:遷子が入会した昭和10年代の「馬酔木」は、俳壇で革新的な役割を果たしてきた時期ではなかろうか、そう考えると、遷子は「馬酔木」の同人達の影響を受けているだけで、十分に革新的だったのではないか。

時局を詠う、生活を詠う、美しい風景を詠う、すべて馬酔木の中にあったものではないかと思われる。遷子は「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていた、だから消極的な社会性俳句も理解できるように思う。

当時の結社の同人は、今のような超結社の句会など考えられないほど、結社に縛られていたのではないだろうか。選者の選が絶対的であったし、結社ごとの色分けができていた時代だったことも考慮しなければならないと思う。

  • 3.戦後の政治と遷子について述べよ。

中西:遷子が政治の句を詠んでいるのは少ない。おそらく新聞やテレビ、ラジオで知り得たニュースから、当時の内閣を批判したものが目に付くぐらいである。

そしてそれらは『雪嶺』に集中している。戦後という期間は昭和何年頃までを言うのだろうか。昭和31年7月の経済白書の第一部総論の結語に、「もはや戦後ではない」という経済企画庁調査課長の後藤誉之助の文章が載っていることを、半藤一利の『昭和史』は揚げている。しかし、一般国民にとって、戦後はもっと長かったのではないだろうか。

人の言ふ反革命や冬深無む」は昭和31年のフルシチョフによるのスターリン批判だろうか。「誰がための権力政治黒南風す」「夏痩の身に怒り溜め怒り溜め」は、ブログで原さんが、当時の政治的な事件や安保反対デモの樺美智子さんのことを書かれていたが、岸内閣の安保改定の焦りと独断が、国民の不安を煽ったようなところがあり、安保反対デモは昭和35年5月19日の安保改定批准の強行採決以後ますます激しくなったのを、マスコミは連日のように報じていた時の句だろう。今回の震災でも言えることだが、ショッキングな場面を連日テレビ画面で見せられると、人はストレスが心の深層にまで浸透してしまうようだ。当時、国会ニュースの岸内閣の真夜中の採決や、デモ隊と警察の衝突などの映像がどのくらい国民にストレスを与えたか。遷子も「怒り」というストレートな反応を示している。が、あくまでも一般的な受け止め方だと思う。

また遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句も一句あった。多分医師会の陳情だろう。「会議陳情酒席いくたび二月過ぐ」がある。

  • 4.戦後の生活と遷子について述べよ。

中西:戦後を終戦後5,6年の期間として答えたいと思う。

戦中に肋膜炎を発病し、本土へ送還された遷子は、函館の病院の内科医長の職に就く。当時の内科医長はどのくらいの生活ができたものか。当時斉藤玄は病院の医長室へ遷子を訪ねている。遷子には病院に職務室があてがわれていたようだ。戦場から疲れて帰って来たといっても、妻子を養わなければならず、病気と仕事の折り合いをつけての勤めだろう。しかしその後、この病院勤めを切り上げ、故郷佐久での開業に踏み切ったことは、健康上の理由で、東大医学部を除籍したことを表すのではないだろうか。病院勤めは東大医学部からの派遣として行っていたものではないかと思われる。それだから、佐久で開業した遷子の句に、「百日紅学問日々に遠ざかる」「蝌蚪みるや医師たり得ざる医師として」「故郷に住みて無名や梅雨の月」などの句があり、大学研究室を断念したことの悔いが燻っているような印象が長く続いていたのではないか。戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである。

ともあれ、弟愛次郎を誘って、内科と外科の医院を開業する。「四十にして町医老いけり七五三」「裏返しせし外套も着馴れけり」という句が、開業してからの数年にある。医師が古い外套を裏返しにして着ているというのは、当時のかなりの困窮を物語るものである。開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか。

  • 5.家族・家庭と遷子について述べよ。

中西:遷子の俳句から、良き家庭人だったことが窺える。『山国』に「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」という句があり、明治生まれの潔癖さが遷子にはあり、この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるものだと思う。句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるものである。

『雪嶺』には、息子を描いているものに、親の本音が出ている句が見られて、遷子も世の父親と変わらない姿を見せている。「かすむ野に子の落第をはや忘る」「突如たる子の反逆や冬旱」「三月尽遊学ずれの子が戻る」など長男次男の姿が見られ、実寸大の親子関係が見て取れる。その中で「帰省子に北窓よりの風青し」があり、「青し」に注目した。何故かと言うと『草枕』の若い頃の作品に「梅雨めくや人に真青き旅路あり」を思い出したからだ。「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある。子に向けて書いた「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている。人の観念の本は青年時代から変わらないものだろう。遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか。

その他に、次子東大合格の前書の「冴え返る星夜駆け出す師の下へ」など二句、「秋の苑子を嫁がせし父歩む」娘の結婚七句というふうに愛情いっぱいの手放しで喜ぶ良き父の姿もあり、これらの句は句集に華を添えている。

しかし、医師遷子を主人公に成り立っている『雪嶺』作品群の中では、かなり地味な存在のように思う。家族詠としては、『山河』の死に到る父を描いた作品が地味ながら目を引く。家族を描いているものでは死の前後の父を描いたものが良かったと思う。

戦後俳句を読む(20 – 2) 目次

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相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(3)

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