筑紫磐井②
- 4.戦後の生活と遷子について述べよ。
筑紫:研究当初は遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、それは我々の大学受験で医学部が人気学部になったころ以降の話(仲氏の話によれば国民皆保険制度ができてからのころ)であるようで、戦前の医師の生活はそれなりに大変ったのではないかという気がする。メンバーの一人は開業医の家で育ったが、相当の支援者がいて初めて開業医としても裕福な生活ができたことがだんだんわかってきた。
遷子の場合、自分と弟が東京の大学に進み医師の道を進むということであれば、その父親の負担たるや並大抵のものではなかったはずである。「年逝くや四十にして親がかり」という句があるが、大学から始まり、開業、その後の病気療養まで含めて父親に依存していたらしい。人のいい父親が人助けのために手に入れていた土地がこの兄弟の医院開業の役には立ったという、それは偶然の幸福であった。したがって、遷子自身いくらがんばっても、
田舎医となりて糊口し冬に入る 23年
正月も開業医われ金かぞふ 同
自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同
暮遅き活計に今日も疲れつつ 同
という状況であった。これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全くことなる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれたものだと思う。
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それにしても、この相馬兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業のことを考えると父親の豊三氏は、家長としての重い責任を果たしたことになる。一族に誰一人医師はいなかったのであるから、こうしたコースを取らせることは重い負担を覚悟しなければならないことは明らかであったからだ。『山国』『雪嶺』で見る限り、魂の抜けたようにしか見えない父であるが、遷子が語る父親の像と少し違ったものがあったかもしれない。
我々にしても、目の前にいる父親(あるいは亡くなる直前の父親)と時代時代を生きてきた父親(その中には、20代の父親、30代の父親、40代の父親と異なった姿があるはずである)は少し違った目で見てやらなければならないかもしれない。もちろんそれは、我々の子供に、我々(子供の父親)の姿を語るにあたっていっておきたいことでもあるのだが。
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メンバーの中で、昭和30年代に家族が開業した例があったので遷子の状況と比較して議論してみた。開業にあたっては東京の東の外れの旅館を買って医院とした(遷子も野沢の旅館を買い取って改造したという点でよく似ている)のだが、おそらくこの頃開業するには、親の医業を継ぐのではない限り、親か連れ合いの一族の支援がなくては独力では不可能であったと思われる。遷子の父がいろいろな事情で引き受けていた土地家作が役に立ったものであるらしいが、その意味で遷子が兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だったと思う。
入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというような例もあった。
病院と違い、開業医は長閑なもので、患者来ない時間が時折あったので、子供たちは診療室の父親と話ができたらしい。
卒業して数年の医師達は大学から色々な病院に派遣されていた。何々大学系の病院があるのはそのためと思われる。大学といくつかの病院は密接な関係にあり、遷子もいずれ我慢をしていれば函館の病院から大学に戻れたのではないかと思われる。遷子の最大の想定外は、病気のため病院を辞めて開業に入ったことであった。
病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。
- 5.家族・家庭と遷子について述べよ。
筑紫:全く関心がない。
- 6.自然と遷子について述べよ。
筑紫:遷子が俳句という芸術に足を踏み入れる動機となったのは、秋桜子に教えられた自然観照の美しい風景によるものであった。ただ、言っておくがこうした自然観照は独創的である必要はなかった。あらゆる青年たちが共感したからこそ、馬酔木俳句はこれほど広く展開したのだ。驚くべきことに馬酔木の最初の歳時記『現代俳句季語解』(昭和7年)には例句が掲げてあるが、作者名の記述がない。その理由を水原秋桜子は「作者名を省いたのは、お互いの共有の芸術であるという親しみを持ちたいから」と述べている。お互いの共有の芸術!個性以前の問題であったのである。虚子が確立した日本的季題趣味に対して、水原秋桜子は西洋美術的な自然趣味を導入した。それは当時の若者共有の感覚であった。
こうした共有感覚が壊れ、個人個人の悩みが個性の下で語られるようになるには、人間探求派を待たねばならない。人間探究派まで作者の個性は俳句に現れるわけにはいかなかったのである。遷子の美意識は、秋桜子の美意識そのものであった。顔のない、美しい、美意識であった。戦前の遷子の叙景俳句と、戦後の馬酔木高原派の俳句は本質において何も変わるところがなかったのである。皮肉に言えば、少しばかり、近江俊郎風の「山小屋の灯」的通俗性を加えたに過ぎない。