戦後俳句史を読む (19 – 3)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1) -

筑紫磐井③

  • 7.職業・仕事と遷子について述べよ。

筑紫:職業とは生活費を得るための活動だとしたら、職業人は給与に見合った誠実さを発揮すれば済む。しかし今でも、ある職業についてはまず職業とその倫理が先に存在し、社会がその種の職業人に敬意を持って処遇するという理念があることを頭では知っている。教師、政治家、医師、灯台守などすべてそうであったのではないか。今は死語になっているが、「恩給」という言葉がある。これは、官吏は国家のために身命を賭して働くからその老後の蓄財もないわけで、そうした国家への忠誠に対して御恩として給付されるから「恩給」なのだそうだ。いやそもそも、公務を行うものは労働の対価としての給与(給料)は存在せず、高邁な無償のサービスに対して生命を維持するために国家から給されるもの(俸給)であったと考えるべきらしい。

何と時代遅れなという失笑がわくかもしれないが、給与を無視した義務としての職業倫理と、極めて合理的な労働原理の中間に遷子や同世代の人々が存在したことを忘れてはならない。二度と我々が感じることのできない、社会的な義務感がまだまだ私たちの周辺に高揚していた時代のことである。

  • 8.病気・死と遷子について述べよ。

筑紫:これこそみなさんに聞いてみたいところである。遷子の死についての反応は2つある。①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応である。

①については、堀口星眠が、「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」と遷子が語っているのを聞いている。自らも「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」と回想しているように、遷子の勇気あふれる姿を想像することはできない。しかしだからといってこのような死の危険が普遍的であるとは思わない。

一方②についてはすでに本論で述べたように、無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である。ささやかな「私」という世界の、しかし確実な崩壊である。その向こうには親子や親友や妻や恋人もない、暗澹たる虚無だけが広がっている。復活も、未来もない。とすれば私に残る世界の最後のたたずまいは、この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るかと言うことである。戦場に出かけるという体験は、我々にはほとんど期待し得ないだろうが、後者の死は確実に我々も体験する。この瞬間を動物的でもなく、神や他の人の律する命令でもなく、自分自身の眼差しで見つめようとするとき、われわれが体験しようとする死と、遷子が体験した死は全く同質のものであるはずだ。その時、「微塵となりて去」るという感想を持ち得るだろうか。我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい。

  • 9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について。

筑紫:遷子が誰からこうした俳句(特に開業医俳句)を始めたかといえば誰も遷子の先人となる人はいなかった。遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した。一方、遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのではないか。

  • 10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

筑紫:①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する逆説的戦後俳句史が浮かび上がる。「社会的意識俳句」時代のあとは、伝統俳句の時代が新生したのではないかと思っているが、それは別のところで述べたい【注】。②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなる。遠いところで聞こえる聴覚、寝ている床ずれの触覚、そして言葉であろうか。論理が消えるにもかかわらず言葉が残るというのは奇異に聞こえるかもしれないが、意味など失った「ことば」だけが残るのである。だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる。亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ。明治35年9月18日午前、子規は碧梧桐や家族に板書を用意させ、糸瓜の3句を書く。無言であったという。やがて十数時間後、深夜を回った19日の1時には子規は既にこと切れていた。さて、我々の主人公相馬遷子が、届けられた葛飾賞の副賞の秋桜子の半折を嬉しげに眺めていたのが昭和51年1月19日の午後3時、やがて眠りに落ちた遷子は6時間後の9時半に永眠した。

こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえていることである。芸術は制作動機を超えて、新しい感動を読者に生む。よく知られた遷子の俳句、

雛の眼のいづこを見つつ流さるる

がある。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が、坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


【注】遷子の座談会で述べるのもおかしいが誤解のないようにいえば、角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)を言う。概して言えば彼らは、「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない。

戦後俳句を読む(19 – 3) 目次

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相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1)

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