戦後俳句史を読む (22 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(5)‐

【仲寒蝉】②

  • 4.戦後の生活と遷子について述べよ。
  • :句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る。『山国』から『雪嶺』には貧しさを詠んだ句が散見され(これが社会性俳句の原動力)当時のこの地方がよほど貧しかったと分る。また『山国』に見られる蚕や繭の句からは当時の佐久地方で養蚕が盛んだったことが窺える。

    遷子が車に乗ったかどうかは分らない(少なくとも俳句に車は出てこない)が自転車は持っていたようだ。昭和32年までは自転車で往診する句が出て来る。

    スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる事項も出ては来るが多くはない。

  • 5.家族・家庭と遷子について述べよ。
  • :句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る。『山国』から『雪嶺』には貧しさを詠んだ句が散見され(これが社会性俳句の原動力)当時のこの地方がよほど貧しかったと分る。また『山国』に見られる蚕や繭の句からは当時の佐久地方で養蚕が盛んだったことが窺える。

    遷子が車に乗ったかどうかは分らない(少なくとも俳句に車は出てこない)が自転車は持っていたようだ。昭和32年までは自転車で往診する句が出て来る。

    スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる事項も出ては来るが多くはない。

  • 6.自然と遷子について述べよ。
  • :八ヶ岳、浅間山といった山々は佐久移住前の『草枕』時代、『山国』でも昭和30年代までは分け入ってゆくもの、それ以後は遠望するものとして詠まれる。千曲川をはじめとする川とともに佐久定住後しばらくは遠くに冷やかに聳える存在であったが『雪嶺』の終り頃から『山河』時代になると「わが山河」と呼んで愛するものとなった。

     今回磐井さんの論文によって遷子の俳句に星が多く詠まれていることに初めて気付かされた。『山河』から『雪嶺』までほとんど毎年のように星の句がある。佐久の方言で「凍みる」と言われる冬の気温の低さ、そのせいで空気中から水分が希薄となり星が美しくも冴えわたって見える。遷子の住んでいた野沢の隣、臼田は「星の町」のキャッチフレーズで売り出し、臼田宇宙空間観測所のパラボラアンテナが星々に向けられている。

     だが一つ一つの植物や動物の名前を挙げて詠むことは多くなかった。盆栽が好きだった父親と違い「生き物飼はず花作らず」と自分を規定しているくらいだから、高原派と呼ばれる割には生物に対して冷たい。人間も含めた生物とウェットな関係を持つことが彼にとっては煩わしかったのではないか。

  • 7.職業・仕事と遷子について述べよ。
  • :医業については「医師の眼」に詳しく書いたので繰り返さない。自分の職業や患者に対する遷子の態度、信条を箇条書きすると、

    1)生真面目。俳句を読んでも「滑稽」や「笑い」からは程遠い。ペットや盆栽にも興味なく、仕事と俳句にひたすら打ち込む真面目人間。 
    2)優しさ、温かさ。遷子は手遅れの患者を叱ったり風邪の患者に金を払えば即他人と言ったりもしたが、 
      根は患者思いの医師であった。彼が患者に優しかったのは自分自身や家族が病弱であったことと無関係ではなかろう。 
    3)人間嫌い。患者や人間が嫌いだったのではなく世俗の人間関係が鬱陶しかったのだろう。 
    4)正義感。常に弱者の立場に立とうとする姿勢。 
    5)潔癖。生真面目と通じるが媚びる自分を許せないようなところがある。

    戦後俳句を読む(22 – 1) 目次

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    相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(5)

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