第11回詩歌トライアスロン三詩型融合型受賞連載第3回 samui, 畳川 鷺々

第11回詩歌トライアスロン三詩型融合型受賞連載第3回
samui,
畳川 鷺々

いま光いくつか跳ねた わたしはわたしのヴァイオレット・エヴァーガーデン

入力はインサートモード、あたまから足先までに草木が焦げる

冬の森こめかみあたりに響く色サンフェーデッド湿る葉を踏む

samui,部屋がもうね、第一声が半角英数になってしまうくらい寒いので、ここで人差し指を、ないカメラに向けて、そしてウィンクする、しかしまあまだこの程度で暖房をつけるなんてそれは負けてしまったような気持ちになる、ので布団をマックスまでかぶってころころしている、寝巻と布団をこすりあわせるようにしているのだけど、そんなころころばかりしていても仕方ないというか、ふつうに人としてどうかと思うので本を読もう、と思ったの。本はいいぞ。ナイスなアイデア、はいそれではいま布団を這いでたそこのあなた、はいなんでしょう、はいここで一句いや三句! え、そんな急に?

書架に咲くポインセチアの凍てつけり

去る鳥の爪のかたちに冬来たる

音のなく白き昏きを狐ゆく

っと、なんとか三句捻りだして、わたし俳句は専門外なんですがね、えっと、なんでしたっけ、( 空気、きんちょうしてる? うん、わたしも )あ、そう本を読む、というね、それはクレバーなヒューマンによる、ナイスなアイデア。で、まあ読んだことのない本は刺激が強い、というかなにかの拍子にまたからだの芯から凍えるような言葉をぶつけられてしまうかもしれない、のでなんども読んだ本を読むことにした。なんども読みたいと思わせる本はそう多くはないけど、そういう本にであったら、それはなんど読んでもよいものだ、ってほくほく、そしてころころ大好きな「麦ふみクーツェ」をたたん、とん、読んでいたんだけど、だめ。お気に入りのその本を持って支えてくれる、ときには背表紙を打楽器としてリズムを刻み、また見開きを読み切った際には頁をめくるなどの重要な役割を担っている手が、両手のやつらが、奇しくも布団からコニチハ出てしまっているので、かじかんでkajikande,ほら、もうだめなのである。こうなったら、もう、わたしは、ふぃーーんっと、ふて寝する。ふぃ、っとね、って待て待て、手はかじかんでだめになってしまっても、人としてだめになりたくないぞ、こんな昼下がりにふて寝なんてだめすぎる。ふて寝、というのがだめ。ここに鏡はないけど、ふて寝をする人の顔なんてひどいものに決まっている。ふぃーーんじゃないっての、うん、だめだめ。布団のなかでもここが一番あったけんだわと両手を股座につっこんで、そんなひどい顔をしているようではだめ。お猿さんだよ。といったわけで、わたしは空想をすることにする。クリエイティヴであるならばたいていのことは許されるらしいので。わたしとお猿さんの違いはそのくらいのことらしいので。

あたたかい掃き溜めですね サイレンがどうも近くにとまったみたい

きらきらと異星のふたご百組の七百の眼に宇宙ステーション

直角に絵筆を折って描きづらい描きづらいと泣く夜明けの賢者

これからの後悔の日々きらめいて金平糖に舌がやられる

塗りつぶす色には意味はなくていい/セルを結合してはいけない

きみのいうクリエイティヴのヴがきらい扉をぜんぶひらいたままの

空想を空想したまま、なににも書き記さないで、わたし以外に知られることのなくわたしからも忘れられて、そこに生まれた人たちはわたしから観測できない場所で踊りつづけているのか、眠りつづけているのか、あるいはわたしを空想してくれているのだろうか、どうなのか、と言ったところで実はそんなことにさして興味もなく、どちらのわたしも違いはフジパン本仕込とロバパン本仕込ほどのものらしいので、けれど空想は頭のなかのフィルムが焼き切れるくらい、あった記憶となかった記憶とこれからのことを映しては塗りつぶし、削っては下地を晒してと、とても骨の折れることであり、つまり全身を休ませる必要がある、なにしろ骨が折れているのだから。そしてなによりもsamuiのだから、冬のほうからわたしに入ってきておいてさ、かたくなって、砕かれやすくなってしまった約束はどこへいったのか、そうだ、AtamaまでFutonをかぶってSanagiのようなかたち、それは祈るときのような、半液状になってiPadでYoutubeをWatchするというのも良いだろう、とわたしなんかは思う。本を読む、映画を観るのはInputとしてとても推奨されているのに対し、YoutubeやAnimeを観ることについては時間の浪費のように、愚かなことであるように扱われることが少なくないように思える、そんなことないよ、ないよね、と言っているとこんな時間に珍しくわたしの推しのVtuberが配信をしてくださっている、なにかひどい目にあってしまって、最悪ーーってお前が配信で言うたびにそんな強くて悪い言葉を使うなよ、お前は最高のインターネットだよっておもって、あとその言い方がさ、災厄ーーって言っているように聞こえるんだよ、あれ災厄と厄災ってなに、どう違うの、え、厄災くるの、来ちゃうの、みんなはどうするの、わたしはからだを凍らせながら、好きな人、からだを持たないままに熱のある好きな人の声を聞きながら果てるのも悪くはないと思ってるよって自語り長文スパチャスマソぽまいらいつもありがとう愛してんぞ笑、ってこんな独り言をチャット欄やコメ欄に書きこむ勇気もなくて、じゃあってんで一蘭のレシートの裏にでも書こうか、書ききれねえっつーの、この愛は一蘭のレシートの裏なんかには書ききれねえっつーの、せめてもっと長いレシートだす店あんだろ、ってゆうか一蘭に行ったことないからそのレシートの長さとかわからなくて、本当は箸袋の裏のほうが詩的にうつくしいのに、いやそうだろうか、だけどそれだと整合性がーー、みたいな。そして、そうしているあいだにもiPadは熱を帯びはじめて、あなたの声と手をとってわたしの手を解いてくれるようにーー、みたいな。

(みたいなで終わらせることによってなにか余韻が生じるとでも?)
(そしてその余韻は詩的とは言えない)
(詩的なスパチャってなんだと思いますか?)

半ドアの冷蔵庫から冬銀河

桃色の雪原うつくしいつくし

敬虔なかたちに眠る寒の虫

タグ: , , , , ,

      
                  

「三詩型融合作品」の記事

  

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress