沼はあって結果が雨 昭和40年作 注①
六・六の十二音の短律の所謂写生句である。噂に聞いていた沼をやっと探しあてたのであろうか。しばしその場に佇んでいると、いつともなく雨が、という状況。上句の一瞬の発見時と、下句の雨に至るまでの時間経過が二句一章によって上手く表現されていると思う。「結果が雨」の「が」の用法は自由律俳句ではよく使われるもので、「~だが、しかし~」という意を後の空白部分にあずけて余韻をもたせる効果がある。テーマにそった短律句としては次の様な句もある。
ぬれた石の日曜 昭和34年作 注①
雨かかる石の昼の時 々 々
特に上手い句とは思われないが、雨と石と併存したものが圭之介の句に頻出しており、特に石には自己投影しているかのように思われる。
石の雨の随想 昭和18年作 注①
石が一生涯屋根に置かれてあって雨降り 昭和38年作 々
短律と長律の句を取り上げてみたが、動かない石を港町から一生動けない自己と背中合わせの存在として認識しているのであろう。その港町にも雨が降る。
雨にキネマの灯ばかり明るくて 船の笛 昭和12年作 注①
外の灯が暮れないうちの海に一ト雨 昭和17年作 々
両句ともに戦前の句であるが当時の港町の情景がしのばれ、雨にほんのりと浮かんだ燈火が人生の哀歓を浮び上らせているようにも思われる。その戦後の雨の港町を圭之介は次のような詩でうたいあげている。
<雨がふって> 昭和29年作 注②
夜の海岸町を歩いていた
ウインドのカンカン帽
船具屋の錆びた船具
おでんの串にさした恋
ひとりぼっちの酔っぱらい
どの路も 海の匂がして
海の匂に 雨がふっていて
黒い傘を哀しい想いでささえて行く
何故か素朴な思いに浸される詩作品である。
注① 「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注② 「近木圭之介詩抄」 私家版 昭和60年刊