戦後俳句を読む (23 – 1) ー「獣」を読むー 近木圭乃介の句  / 藤田踏青

月烈烈断水ノ街。犬帰ル

掲句は平成7年の阪神淡路大震災の折に詠まれた作品である(注①)。圭之介は山口県在住であったので、この句はテレビなどの映像からイメージしたものと考えられる。その時、私も被災していたので、当時の1月の寒空下の様子は体感的に受容できる。電気、ガス、水道など全てが止まってしまった街、それを皓皓というよりは烈烈とまるで身体を刻み込むような月の光として表現。そんな月下を帰巣本能であろう、トボトボと帰って行く犬の後ろ姿が目に浮かぶ。そして犬の姿に何故か人間の姿が重なって見えてくるから不思議である。句表現としては全て漢字とカタカナ表記であり、それがこの過酷な情景を推し出すと共に、句中の句点によって分断された光景と意識さへをも窺わせている。

この時、圭之介が所属していた俳誌「層雲自由律」の平成七年の震災特集では、掲句と共に次の様な句が掲載されていた。

「父この下です」写真にペットボトル水   小川未加     注①
燃え尽きたダリの夜が明ける       藤田踏青      同
首相の眉毛ほど救援のびず尚余震     古市群青子     同
無事か無事か無事か無事だったか     中條恵行      同
なぜだなぜだと問い糾す炎の夜      伊藤完吾      同

特に前三作は被災者自身の句であり、後二作は無情への限りない問いかけのようでもあり、昨年の東北大震災へと思いを致すものがある。

 月に野犬化する黒い一匹の周辺    昭和41年作    注②
 夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年作

「獣」にはその実体と共に、人間の「獣性」というものとも考える事ができよう。前句の黒い一匹は単純に野犬と見る事も出来るが、「周辺」という社会、環境などの対比から野犬化した一個の人間の姿と見る事もできよう。その強調された黒の輪郭線はルオーのようなフォーヴィズムをも想起させてくるようである。また後句は明らかに心理的な獣性を示しており、圭之介が当時94歳にしてなお獣性を秘めていたとは驚きであり、鋭い自画像となっている。

 かげ 黒猫となる    昭和39年作    注②
 猫 月光の幅を跳躍する   同        同

「犬」とあれば当然「猫」も登場する。これらの句の場合の猫は、かげや月光と対峙される事によってその存在自体が強調されると共に、その存在の限界点、範囲指定のようなものを提示しているとも言えよう。そして当然それは自己と背中合わせの存在のようでもあり、転移した存在とも言えようか。

   <パレットナイフ18>抜           注③
 Ⅴ わたしは野良猫 港町のいっぴき
   影さえ与えられない駄目な野良(ノ)猫(ラ)さ
   いいですか向こうでは太陽が一つ素敵だ

この詩でも野良猫は自己であるが故に太陽から遠ざけられ、影さえ与えられていない存在である。愚直な思考の方向性の中で情緒は引き裂かれ、変転し、何処へ流れ出ていくのであろう。


注① 「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注② 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注③ 「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊

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