葉紀甫を知っているだろうか。「すゑ・のりほ」と読む。
生前に刊行した詩集は、『わが砦』(1967年・思潮社)と、死の寸前に刊行した私家版の『葉紀甫詞漢詩集』上下巻、だけである。しかも、双方とも知り合いに配るための小部数しか刊行されていない。これに、死後刊行された『不帰順の地』(1994年・あーとらんど)を加えた三詩集と、未刊詩篇が、現在知ることの出来る仕事の全てである。今回、葉の親友だった入沢康夫さんの尽力で、私家版の『葉紀甫全口語詩集』が刊行され、この戦後詩の幻の詩人の全貌を知ることができるようになった。
葉は1930年に日本占領下のソウルで生まれ、入沢康夫の文章によると、引き上げてきた松江で中学生の頃から、詩作をしていた。亡くなったのは1993年なので、ほぼ60年に渡って詩を創りつづけたことになる。『葉紀甫全口語詩集』の作品は百編足らず。これに二分冊の漢詩が加わるが、少ない作品の数といえるだろう。このような寡作と、極端に限られた範囲での発表のため、一部にしか知られていない詩人になっている。しかし、以下に引用する詩を読めば、戦後詩の代表作と比べても、見劣りしないことが分かるだろう。詩は国家の散文的文脈の意識に、あらがう言語で書かれていて、まさに詩の本質を貫いている。あるいは、戦後詩の最良の部分を有している、といってもよいかもしれない。
人が生えている 生き続けて蒙々たる樹木にからみ
にじみ 青葉に映えている
開き 閉じる長い襞々の谷あい 思いがけぬ台地 樹
や 人や 水や 葉 光におおわれ それから
必要な器が 必要なだけ産まれる そして器は 人の
かたちなりによりそう
厚く厚く 迅く 毛深い土地を固める壮大な季節風は。
かなりの永い間 日を遮る
人は土地に似る
土地は誤らぬ
待つのか いやそれとも
昏い起伏 台地
流れ出る樹液は 不規則な人たちをゆるやかに浸して
元に還えり 光る
日も やがて射す ちりぢりになる 暗いそれぞれの
曲折を経る 水を吸い上げる 葉は人に似る 人は
どこかで音楽を聞く
毛深い土地だ
笛がきれぎれに鳴っている
音楽は土地に帰依する
人が増えるのは全くかまわない
土は深い
だが赤児は 多く不自然に圧死した
遠い血・頭上を跳梁する犬・白衣の婆あ・指弾され
る家・群生する老狐
樹の間に のびやかな話声がする
人は葉に似ている
生える そして
だから 人たちは常に近くにいる
『わが砦』末尾の詩を全文引用した。
まず書き出しのあり得ない風景を、事物として生き生きと現前させる言葉の強さがある。言葉のが事物を喚起させるイメージの強さである。書かれたというよりも刻み込まれたように、描像が読む者の意識に現れてくる。世界を描くのではなく、世界が描き出されている。現実ではあり得ない世界が、とはいえ多分に現実の意識と関与しているのだが、言葉の運動によって現前する。書き出しの、「人が生えている 生き続けて蒙々たる樹木にからみ/にじみ 青葉に映えている」、という若干悪夢のようでもあるイメージは、読む者を作品の言葉の運動に巻き込んでいく。あり得ないはずのイメージが、読み手の意識に侵食し、あたかもそこにあるかのように浮きあがってくる。まさに詩を読む快感。詩の意識が現実の意識を揺るがし、今ある安定は崩れる。詩は以下のように続く。「開き 閉じる長い襞々の谷あい 思いがけぬ台地 樹や 人や 水/や 葉 光におおわれ それから/必要な器が 必要なだけ産まれる そして器は人のかたちに/よりそう」 一点から出発した詩のイメージは、「や」などの繰り返される音のリズムと共に、広がっていく。詩の意識そのものが世界へと広がっていくのだ.。それに伴なって、生え出した人もより実感を帯びて動き出す。イメージは増殖し、読み手の意識のより深くへ触手を伸ばす。ここまで言葉を追っていくと、語られる出来事は、読み手が知らないだけで、現実のどこかで起っていることのように、思えてくる。詩の意識が読み手の認識の一角を崩し、現実はイメージの反射によって、反省させられる。
このような特長はすべての詩にいえる。
また多くの詩は何らかの過去の時間の、プレテキストを持っているように思える。表題作の冒頭を引用する。
平板な こんじき金色の大太陽に背いて 武者たちが陰残に帰
つてくる。切り取られた首たちの口は頑固にしまらな
い。
兇暴な女たちは 殿の供で留守。
砦の闇にもくれんが匂う。隆々とした木組の士部屋は
急な匂配の屋根を持ち 絞めつけた新縄が丸見えで美
しい。あああ新縄 かわらけ土器。
兇暴な女たちは 殿の供で留守。
この詩は過去の任意の時間の意識を、現在の喩、寓意として描いている。現在の奥底、あるいは無意識といってもいいかもしれない場所に潜む、生生しい意識が浮きあがってくる。このような丸ごとの寓意が、詩集の主体の意識の基底にある。しかし、基底には平行してもうひとつ別の意識もある。もう一度、「毛深い土地」に戻ってみる。
人が増えるのは全くかまわない
土は深い
だが赤児は 多く不自然に圧死した
遠い血・頭上を跳梁する犬・白衣の婆あ・指弾され
る家・群生する老狐
ここには永い時間の経過がある。「土は深い」のである。しかし、ここに現れてくるのは、整理され正史からはかけ離れたイメージだ。「赤児」。「遠い血・頭上を跳梁する犬・白衣の婆あ・指弾される家・群生する老狐」、などのイメージは、むしろ歴史から置き去りにされたものたちだ。「多く不自然に圧死した」言葉を持たぬ死者たちともいえる。このような声にもならない声の動きが、詩集の主体のもうひとつの意識を形作っている。そのような意識から現象を見透かす視点。死者の目を投げかけることにより、日常の制度に亀裂入れる。
詩の主体は問われることもなく消えた声そのものに近い.。