ジュリエット・悪夢    法橋 太郎

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ジュリエット・悪夢    法橋 太郎

ジュリエット

掌は凍てついてうまく動かなかった。ジュリ
エットおまえとおれの距離は確かに遠い。単
に地理的な距離のみでなく女と男の考え方は
遥かに遠いんだ。おれがまだ何とか生きてる
っていうことのほかよく分からない。春の星
の光が泉の底にまで届く夜、おれにできるこ
とはその気持を光のままにおまえに示すこと
だけだ。

缺けた茶碗で飯を喰らう。警棒でさんざ殴ら
れ何日も起きあがれない日もあった。確かな
ものが何ひとつないこの世で人は確かなるも
のを求め続けるのかもしれない。おれはおま
えの何らかの合図を待っているんだ。ジュリ
エットたとえそれがささやかな羽音のような
ものであれ不確かな気持のままでいるよりは
ずっとましなんだ。

おれにはごろた石のような過去がない。風を
はらむカーテンのような未来もない。現在は
おまえの面影で一杯だ。金持画廊のもとに忍
び込んでなみなみと注がれた搾りたてのフル
ーツのようなワインのうえにもジュリエット
おまえが映る。暗い空から今夜も透明な冷た
い粒の春雨が降る。

おまえが望むならその雨粒を掌のうえで星の
光に結晶させてみよう。その輝きがジュリエ
ットの黒い瞳の真中で確かな輝きを宿しその
光をおれの瞳に映すためにも。そんな夢を見
ながらおれは野良犬さながらに地面に叩きつ
けられて帰る場所もない。わが愛しの祖国、
ジュリエットよ。
               2020/02/21

悪夢

ハナコはその日も不正が行われているとスク
ラップブックを見せ夫に話したが夫はネクタ
イを結びながら黙っていた。憤懣やるせなく
思っていた彼女は私こういうことを詩にした
いのと呟いた。夫はあいかわらず黙したまま
行ってきますと玄関のドアを開けた。

ハナコは時事問題を詩集に纏めて上梓した。
この詩集は高く評価され第一詩集にして新人
賞を受賞した。彼女のもとに原稿の依頼が相
次ぎ新聞にも絶賛された。知らない名前の詩
人の詩集が山のように送られて来たが彼女に
はそれらの詩集に目を通す暇もなかった。

ハナコはまだ若かったし美人だった。第二詩
集は第一詩集よりよく仕上がったと彼女は思
ったが評判は悪かった。新聞社からの依頼も
なくなった。そんなとき夫が会社を解雇され
ていたことを知った。若い女と歩いている写
真がポストに届いた。

それを察したように夫は寝込むことが多くな
った。ハナコは安い食材で料理を作った。よ
く指を切った。どうしようもない脱力感が彼
女を襲った。詩集を出版する金などなかった。
詩集も送られて来なくなった。彼女は気を落
ち着かせるために時どき料理に使うワインを
飲むようになっていた。

そんなとき彼女の弟が轢き逃げの罪で逮捕さ
れた。弟は何かの間違いだと冤罪を主張した
が有罪の判決が決まった。彼女はその心が音
を立てて崩れてゆくのを感じた。そして彼女
はワインを飲んだ。彼女を拭いようのない孤
独感が襲った。毎日、寝ても覚めても悪夢
しかなかった。

ハナコの顔は様変わりした。買い物に行け
ば何人かの者たちが彼女を白い目で見た。
中にはあからさまに彼女の耳元で死ねと囁
く者もいた。ある日彼女はクローゼットの
中でひとつの肉としてぶら下がっていた。
              2020/09/27
              2020/09/29

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