左川ちか。明治44(1911)年2月14日、北海道余市町に生まれる。昭和3年、庁立小樽高等女学校補習科師範部終了、その後、東京の兄宅に転居し、昭和4年、月刊文芸批評誌「文学レビュー」に左川千賀名でモルナール、ハックスレイなどの翻訳を発表しはじめる。18歳である。昭和5年8月、はじめて詩「昆虫」を左川ちか名で発表。以後、翻訳と詩を精力的に発表する。発表誌は「詩と詩論」「椎の木」「短歌研究」「文学」「文芸汎論」「セルパン」「今日の詩」「今日の文学」「マダム・ブランシュ」「海盤車」「貝殻」「カイエ」「作家」「エスプリヌーボー」「白紙」など多岐にわたり、昭和7(1932)年、21歳でジェイムス・ジョイスの訳詩集『室楽』を椎の木社より刊行。昭和8年、合集『詩抄Ⅰ』に5篇の詩を収録。昭和11(1936)年1月7日、胃癌により死去。満24歳11カ月。同年11月20日、伊藤整編集により昭森社から『左川ちか詩集』刊行。ちかの詩人としての活動は実質5年であった。
翻訳を発表しはじめて間もなく北園克衛を知り、以後、北園は左川ちかの詩の最も良き理解者となる。北園によればはじめて見たちかの詩はすでに出来上がっていて「一つ一つの作品はいずれも均整のとれたものであった。均整のとれた作品という意味は、単にレトリックの上でのそつのなさという意味ではない。レトリックの世界と、それからはみだいしているものとの均衡という意味である。」(「左川ちかのこと」)という感想を述べている。
緑の焰 左川ちか
私は最初に見る 賑やかに近づいて来る彼らを 緑の階段をいくつも降りて 其処を通つて あちらを向いて 狭いところに詰まつてゐる 途中少しづつかたまつて山になり動く時には麦の畑を光の波が畝になつて続く 森林地帯は濃い水液が溢れてかきまぜることが出来ない 髪の毛の短い落葉松 ていねいにペンキを塗る蝸牛 蜘蛛は霧のやうに電線を張つてゐる 総ては緑から深い緑へと廻転してゐる 彼らは食卓の上の牛乳瓶の中にゐる
顔をつぶして身を屈めて映つてゐる 林檎のまはりを滑つてゐる 時々光線をさへぎる毎に砕けるやうに見える 街路では太陽の環の影がくぐつて遊んでゐる盲目の少女である。
私はあわてて窓を閉ぢる 危険は私まで来てゐる 外では火災が起こつてゐる 美しく燃えてゐる緑の焰は地球の外側をめぐりながら高く拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ
体重は私を離れ 忘却の穴へつれもどす ここでは人々が狂つてゐる 哀しむことも話しかけることも意味がない 眼は緑色に染まつてゐる 信じることが不確になり見ることは私をいらだたせる
私を後ろから眼かくしをしてゐるのは誰か? 私を睡眠へ突き墜せ。
絵も描いていたという左川ちかの詩はどこか抽象画を思わせるものがあるが、この作品は女学生時代の汽車通学の景色がモチーフになっている。しかし、汽車に乗っていたという事実よりも風景の驚異に感応することにより、ここでは詩の眼が動いている。それは言葉の運動を呼び、風景をかつて見たという時間軸で捕えているのではなく、ある物質(風景)がいま在るという感覚で主体が引き寄せ、対象はつねにいま(書いているこのとき)の自分とともにいる。だからこそ、過去も未来も溶解して詩の時空をかたどり、このように時空間が溶解してしまえば、おのずと詩空間も制約を受けずに済むため、風景はしだいに内なる世界観へと飛躍することができる。風景は変形し、ちかの緑がちかを侵して、主体を圧迫しているものを緑に象徴させ、幻視の世界を抽出する。
作品では光と緑が衝突して緑の焰を上げるかに感じさせるが、現実にはこのようなことは起きようがない。だが、この情景は美しい。この主体は危険をこのように表して心象と想像の一体化をはかり、さらにそれを消えゆくものとし、美に儚さを加えてしまう。こうしたところに生まれながらに病弱だった左川ちかの実際の身体が関わっているようでもあるのだが、詩の動力は緑が燃えるところまで上昇している。その上昇度が高過ぎることから「私を睡眠へと突き墜せ」と、この詩を生みだした主体を突き墜さなければ作品は終われなかったと思われる。この作品は言葉の運動を横軸とすれば、こうした高揚感の上下運動が縦軸となって詩世界を動かしている。それを対象の質感で語っていくために主体自体の揺動はあらわになっておらず、一見、幻想的な情景をこまやかに描いているに過ぎないかに見えるのだが、しかし、この詩が読者の胸に迫ってくるのは否定も肯定もない無欲な詩情の激しさに他ならない。
多くの作品には死の影が薄く濃く張りついて、それも儚い美しさを漂わせいるのだが、身体の不調を長年抱えていながらの詩作において、詩の身体が研ぎ澄まされてしまったこともまた左川ちかの天才性を作っている。天才性とは生身の身体と詩の身体をまっすぐにつなげることが出来たということであり、それは対象に対しても同様であり、このように左川ちかの詩の開かれは、直情ではなく、異常なほど素直な昂揚として広がっている。