私の好きな詩人 第26回 -牧野虚太郎-橘上

「太郎」という名前の人がいる。かと思えば、「真太郎」という名前の人がいる。ここで一つの問題が発生する。本当の意味での「太郎」はどちらであろうか?

普通に考えれば、「太郎」こそが「太郎」であろうと考えるのが自然であろう。親から「太郎」として育ってほしいとの願いが込められ、「太郎」と呼ばれて育ってきたのだから。

しかし、「真太郎」である。親から「真の意味で太郎になってほしい」という思いを託された子だ。この名前には言外に「太郎」は真の意味で太郎ではないとのニュアンスが含まれている。太郎が太郎であるのなら、わざわざ持って回って太郎に「真」の字を背負わせる必要などない。真太郎の存在は太郎に突きつけられた大きな疑問符である。

しかし「真太郎」が「真」の意味で太郎であるならば、「真太郎」こそが「太郎」と呼ばれるべきではないだろうか。「真」の太郎になってほしいという意味を込められた名前がよりにもよって、その「真」の字によって「たろう」と発声させられるのを阻まれる。これほど皮肉なことはない。

理屈抜きで太郎として呼ばれる「太郎」、しかし意味としては誰よりも太郎である「真太郎」。「太郎」の呼び名と「真太郎」の意味、どちらが太郎なのかを問う時に、二つの名前の隔たりが人々を常に悩ませる。

「太郎」と「真太郎」が真理のゲームの上で激しくせめぎ合ってる裏側で、ひょいと登場するのが第三の太郎である「虚太郎」である。「虚」の太郎と自ら名乗るこの男に誰も「太郎」であることを求めないだろうし、何よりも彼は太郎を演じる気はさらさらない。そもそも虚太郎の本名は「實(まこと)」である。

本当の太郎などという「真理」は彼にとってはどうでもいいのだ。

我々はやれ裁判だ、約束破りだ、6時のニュースだ、ネット書き込みだ、と「真実」を追い求めるがあまり、自らが作り上げた「真実」という幻想に弄ばれていることに気付かずに、「真実」の名のもとに人を裁き、罪をつくりあげ、一件落着と、また別の「真実」をでっちあげる。ここにおいて、言葉は「真実」を手篭めにするための道具であり、「真実」をでっちあげるアリバイでしかない。

我々は言葉を我が物のように扱い、言葉を好き勝手に弄することで、真実を自分の都合よく変換させることにやっきになっている。しかし、本来言葉とは、我々に都合よくつかわれるだけの存在なのであろうか?

「誰もゐないと 言葉だけが美しい」(「復讐」)

これは虚太郎の詩からの引用だが、この言葉には、太郎や真太郎の追い求める「真」などは存在しない。
この言葉をどう解釈して、どのように自分に利用すればいいかわからないからだ。
しかし、そこには誰の為にも奉仕しない、言葉の裸の姿がある。
虚太郎の言葉には誰かの勝手な「真実」に奉仕するためのものではない。
「真実」を言葉によって手に入れようなどと言う卑しさが全くなく、虚太郎の言葉によって裁かれる人もいない。
故にそこには誰もいないのだ。

それこそが言葉の真の姿だ、などと言うつもりはない。それが真であるかもしれないし、真でないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
ただ、そこにある言葉の裸を眺めていればいい。
言葉によって誰かを傷付け、傷付けられることにばかり気を取られていた我々も、この言葉と向き合う時は、そんなことは忘れて、裸のことばをみつめる裸のわたしになれる。

言葉のはだかと私のはだか。

しがらみをこえてはじめて向き合う二つのはだか。
言葉のはだかの姿に見とれてしまったからと言って、交わろうとしてはいけない。
はだかの言葉に手をのばそうとした瞬間、言葉は「さぐれば かなしく/まねけば さすがにうなだれて(神の歌)」しまうばかりである。
この時の言葉は誰のためのものでもない、言葉のための言葉といっていいのかもしれない。
その言葉に指一本触れられない我々は、指をくわえて美しいというほかないのである。
言葉の裸を見るために、「虚」の言葉をあやつって、言葉の「虚」にあやつられ、「虚」の太郎になるしかなかった「實」の「真」に目配せしながら。

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