私の好きな詩人 第33回 -チェーザレ・パヴェーゼー  伊藤悠子

チェーザレ・パヴェーゼ(1908-1950)の生家の広い庭の中央には、一本の大きな樹に包みこまれるように、パヴェーゼの胸像がたっている。生家からはランゲと呼ばれる丘陵が見えるが、胸像はランゲではなく生家をまっすぐ見つめるようにたっている。台座の石碑にはこう記されてあった。「彼は走った そこで生まれ 詩人になることを夢みた家までの 白く長い道を

パヴェーゼは、北イタリア、ピエモンテ州のランゲ丘陵地帯の小さな町サント・ステーファノ・ベルボで生まれ、少年期にトリノに移っている。トリノ大学で文学を学び卒業論文はホイットマンについてである。1935年に反ファシズム活動を疑われて、南イタリアの海辺の村ブランカレオーネに流刑された。流刑の期間は結果的には1年未満であった。1950年6月には、前年出版された小説『美しい夏』で、イタリア最高の文学賞といわれるストレーガ賞を受賞している。若い日々から英米文学を多数翻訳紹介し、代表作であり最後の小説となった『月とかがり火』始め多くの短編長編小説を書いているが、詩作品の数はそれほど多くはない。70篇を収めた自選詩集『働き疲れて』。1950年8月の終わり、トリノのホテルで自死したことにより、勤務先であった出版社エイナウディ社の彼の机の書類入れの中から発見された10篇の詩(題は彼自身によって記されていた。「死は来るだろう、おまえの目を持つだろう」。そして日付も。1950年3月11日-4月11日)と、1945年に書かれた「地と死」と題する9篇の詩をまとめて、1951年にエイナウディ社から出版された30数ページの詩集『死は来るだろう、おまえの目を持つだろう』。よく知られているのはこの2冊だ。未刊のもの、若い日の作品なども没後、刊行されているようだが、それらを含めてもそれほど多くはないだろう。

彼は高校生のときに詩人になる覚悟を決めたそうだが、胸像の石碑にあるように、幼い日から徐々に選ばれていった道だったのだろう。『働き疲れて』の冒頭の「南の海」という長い詩は22歳の頃の作品で力強い。「僕たちはある晩丘の中腹を歩く/沈黙のうちに。おそい黄昏の影のなか/僕の従兄は白を身に纏う巨人だ」と始まり、その外国を巡って来た従兄が、トリノのこと、故郷ランゲそして外国のことを語って聞かせ、年若い「僕」があこがれの気持ちで耳傾けているという形の詩である。これだけではわからないかもしれないが、最後の小説『月とかがり火』に投影されるような、まるで重なるような詩である。当然のことかもしれないが、パヴェーゼの詩は彼の小説ととても響き合う。

私が紹介してみたいのは、『死は来るだろう、おまえの目を持つだろう』の4月11日の詩、「最後のブルース、いつの日か読まれるための」。日付以外は英語で書かれている。アメリカの女優Constance Dowlingへ宛てたものとされる。そのまま書き写す。詩中の’TはItの短縮形。flirtは「戯れ」と訳せばよいだろうか。4行ごとの3連の短い詩だ。

Last blues, to be read some day
 
’T was only a flirt
you sure did know–
some one was hurt
long time ago.
 
All is the same
time has gone by–
some day you came
some day you’ll die.
 
Some one has died
long time ago–
some one who tried
but didn’t know.
 
11 aprile 1950.

遠くに聞こえる波音のような詩だ。繰り返されるsome oneとsome dayにあてどなさを思う。誰とも知れず、いつとも知れず、傷つけ、傷を負いながらも、この世を交差していく者たち。不思議だ。かつては胸をつかまれるように読んだチェーザレ・パヴェーゼだが、今は、目をそらし微笑んでいたある写真の、その微笑みだけが、思い出される。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress