戦後俳句を読む(19 – 1) 楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

テーマ:妻と女の間

テーマ解説

楠本憲吉の新シリーズのテーマは、「妻と女の間」とした。

憲吉の独特の女性のとらえ方は、近代以後の俳句でもユニークなものである。近代俳句は、写生に基づく真実や境涯性、人間探究派の追求した生命や生活といった倫理観に束縛されていたが、これから解放されたのが戦後の現代俳句であった(それでも戦後の社会性俳句や前衛俳句は倫理的であったのだが)。

女性を道具としてしか見ない、それが、妻の存在に至るとおそらく、妻は敵に近いという憲吉の独特な世界にまでになっているのではないか。なぜならこの熾烈なバトルが俳句で描かれたこと自身奇跡だと思うのである。おそらくこんな自己中心的な男は許し難いという読者が8割はいるのではないか。例えば前々回紹介した中西氏はその8割の人。そこで私はそれ以外の、こんな男でも許してくれそうな2割の読者のために鑑賞をしてみたいと思う。

人は聖人君子ではないことはよく分かっているが、それにしても羽目を外しすぎたのが楠本憲吉であろう。既に18回の連載を行ったが、その殆どの回で私は憲吉批判を行ってきた。何のために「戦後俳句を読む」でこんな楠本憲吉を取り上げなければならないかと言えば、まさにこれが「戦後」であるからである。仮面をむしり取って、男の本性をさらけ出したような俳句、女流で言えば(鈴木真砂女でも稲垣きくのでもない、)娼婦俳人と呼ばれた鈴木しづ子と対になる、アプレゲール世代の懲りない俳句を愛するからである。

『新撰21』で登場した北大路翼や、『超新撰21』で登場した種田スガル、惜しくもこれから外れた御中虫、松本てふこらもまだその性のあからさまさと奔放さで楠本憲吉にはかなわないのではないか。新世代が反面教師とするにはちょうど良い作家なのである。

それにしてもこれだけ批判しながらも、憲吉の作品の何と軽快なことか。逆に俳句が忘れて久しいものがここにあるかも知れない。私としては、相馬遷子という生真面目な作者の次に取り上げたいと思った作家はこんな作家であった。

楠本憲吉全句集は、「妻と女」の句を除くとおそらく半減してしまうであろう。「妻と女」は楠本憲吉の俳句のすべてといってもよいであろう。

本題

光る靴踏むや瓦礫の我が華燭26(22年)

25歳で柴山節子と結婚した時の句。憲吉の妻俳句の全てがここから始まるので掲げておいた。まだ戦後の瓦礫が放置されている時代の結婚式である。自解によれば、式場は日本橋高島屋であり、八重洲口は当時瓦礫の山だったという。往時茫々の感がある。そして新婚の新居は鎌倉材木座の借家であった。

あまり個人的な履歴については触れないようにするが最初だけは予備知識として書いておこう。結婚式を挙げたその高島屋に灘萬がテナントとして入り、そこで楠本夫妻は夫婦でアルバイトをする。憲吉の職歴としては、しばらく出身の灘高の講師、帰京して青山学院中学の講師をしていたが、生活が苦しいためふたたび帰阪して灘萬に入社する。必ずしも灘萬の御曹司の華やかな生活が始まったわけではなかったようだ。やがて、灘萬が東京店を開店するために再び東京へ。昭和31年には灘萬代表取締役となるのである。もともと憲吉は慶応大学法学部政治学科を卒業していたのだが、この間、同大文学部仏文学科に学士入学、国学院大学大学院日本文学科に入学したりしているし、また、武蔵野女子大講師、大谷女子大助教授、慶応大学文学部講師、田中千代学園短期大学教授、東横学園短期大学講師などを務めている。すべて女子大生の学校だから鶏小屋に狐を放った感じがしないでもないが、憲吉がアカデミックな研究と教育の場を往復していたことは記憶に残してよいことである。

しかしこの夫婦はあっという間に倦怠に陥る。昭和28年、こんな句を詠んでいる。いささか倦怠が早すぎるようである。

麦芽の青さ妻と睦みし日の遠さ65
妻とゐて風花の昼倦みゐたり66

結婚6年目、長男3歳、長女1歳のときである。

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戦後俳句を読む(19 – 1) 目次

戦後俳句を読む/「男」を読む

戦後俳句を読む/それぞれのテーマを読む

相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1)

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