モノに即して己を隠すフェティシズム
「新しいものが必要となれば新しいテクニックも必要になる、というのが私の意見です。ですから近代の芸術家たちはその表現したいことを実現するために新たな方法、新たな手段を見つけ出してきました。ルネサンスその他過去の文化の古い型を使って、近代の芸術家がこの時代、飛行機、原子爆弾やラジオを表現するのはできない相談です。それぞれの時代はそれ自身のテクニックを見つけ出すのだから」
ジャクソン・ポロック
(ウィリアム・ライトによるインタビュー。1951年録音。『ジャクスン・ポロック:絵画、素描および他の作品をめぐる解説つき目録』)
■
俳句総合誌「俳句」(角川学芸出版)、往復書簡「相互批評の試み」(岸本尚毅×宇井十間)。好連載。
現在発売中の2月号でのテーマは「俳句の即物性について」。
岸本は、韜晦を「自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。身を隠すこと。姿をくらますこと」といい定めた上で、「客観写生とは即物性に身を隠した韜晦」であると論じる。
国の喪や身にまつわりて蠅ひとつ 金子兜太
戦争にたかる無数の蠅しづか 三橋敏雄
俳句が図式化し観念化することへの警戒から「モノ」を句の前面に押し出す営みを兜太の句に認め、つまり、「蠅がたんなる蠅」であるとし、一方、三橋の句については抽象的で図式的な表現を支えるための「小道具」として「蠅」を用いている「野暮」を指摘。たしかに「国の喪」(「この句は山本五十六の国葬の際の句」との解説あり)という観念も野暮ではあるが、それをつつみ隠すようなモノへの寄り付き方こそが「客観写生」というものの特質である、と主題を切り出してみせて。
「あけすけに内面を語るのは野暮ったいというわけで、モノに寄せて語る、さらにはモノを描くだけで何も語らないところに俳句の俳句らしさがあるわけですが、そういう意味では、金子兜太は俳句的なメンタリティーの俳人だと思います」
(岸本)
で、「客観写生は即物性に身を隠した韜晦である」との論に例句での指摘を集約させている。
「ああ、兜太を客観写生派にしちゃったよ」と結論づけるのは早計。岸本は金子兜太をまとめてみせたのではなく、むしろ金子兜太のありようをテコにして、客観写生というものの既存の輪郭を壊して見せているふうにも思える。
あけすけに内面を語ることを避けるということは、いうまでもなく語るべき「内面」があるということにほかならず、あえてそうした「過剰な図式的読解を呼び込んでしまう表現がある(宇井)」兜太の作品を挙げてこそ、岸本が考えるところの客観写生の特徴が浮かび上がることになるのであろう。
■
さて、ジャクソン・ポロックは、「過去の文化の古い型を使って、近代の芸術家がこの時代を表現するのはできない相談です。それぞれの時代はそれ自身のテクニックを見つけ出すのだから」と言う(東京国立近代美術館にて「ジャクソン・ポロック展」5/3まで)。
■
「俳句」(角川学芸出版)2012年「俳句年鑑(2010.9-2011.10)」
合評鼎談/総集編 「今年の秀句、そして諸問題」(西村和子/対馬康子/小川軽舟)より。
対馬 『新線21』『超新撰21』(ともに邑書林)が去年、今年と立て続けに出て、そこから俳句の形式でも内容でももっと理論を深めて何か新しいことを議論したいと思っていたところに地震があって、日本全体も俳人も保守化した。それは足踏みをしているというか、いずれまた何かはあるでしょうけれど、今はそんな感じがします。致し方ないかなとは思いますが。
小川 それは若い人たちのことですね。
対馬 特に若い人たちですね。全般に言えることですが、何かを改革しようとか、そういう意識が今、日本人の中では停滞してしまったかなと。
小川 「俳句甲子園」とか、若手を取り上げたアンソロジーも出て、『俳句』でも若い人たちにある程度ページを割いてきて、それを私たちも読んできたわけですが、若手俳人の活躍の状況について、どんなふうに思われますか。今、対馬さんは「保守的」ということを話されました。確かに俳句表現においてすごく新しいものが切り開かれているという印象はそんなにしないですね。今年特徴的だったことに、詩の雑誌が俳句を採り上げることがあります。最近だと『ユリイカ』十月号ですし、去年は『現代詩手帖』六月号です。
対馬 「詩歌梁山泊」とかその一環の「詩客」、また筑紫磐井さんたちの「俳句樹」や「週刊俳句」など、いろいろなブログがあります。ジャンルを超えた集まりが去年あたりから始まって、そういう背景もあると思うんです。
小川 でも、それで俳句の表現がそんなに変わっているか。若い人たちはジャンルを超えた交流も活発みたいですけれども、『現代詩手帖』二〇一〇年六月号の座談会で小澤實さんが言っていることに同感しました。結局、若い人たちの俳句も昭和の時代に切り開かれたいろいろなレトリックを引き継いで作っているという感じで、それが悪いとはいっていないのですが、表現手法自体はある意味、懐かしさを感じさせるようなところがありますね。
対馬 そういうことなんです、つまり。
小川 でも一方で、今の若い人たちが置かれている社会環境、経済環境はすごく厳しくて、うたわれている内容を見ると、私たちのように高度経済成長期を経験してきた人たちとは違う現実に直面しているんだなと、内容面から新鮮さを感じることが多いですね。
まずそんなことを感じたわけだが。さておき。
俳句とは「時代に応じること」を「韜晦する(岸本語録)」形式なのかもしれず。
むしろ、形式そのものに潜在する文学性を個々がおのれの方法をもって探り当てようとする行為として、さて、私たちはどれだけ「何かを言わずに切り抜けられて」いるか。そういう見方もある。
ひょっとしたら、モノに即して己を隠す(隠すフリをする)というのは、保守的な行為ではなくて、フェティッシュな欲望を刺激する斬新な手法として若い作家たちに認識されている可能性があることを忘れるべきではないだろう。
■
過日101歳を迎えられた金原まさ子さんへのインタビューがめっぽう面白い。
「週刊俳句」2012/02/05 「金原まさ子さん101歳お誕生日インタビュー」聞き手:上田信治
この記事は、ツイッターで「101歳の腐女子」という紹介とともに拡散している。「腐女子」や「BL」についての解説をここでするのは気が進まないので割愛するが、「101歳」という年齢だけではなく、まさしくフェティッシュな欲望を刺激する存在として注目されていることを見逃してはならない。
金原まさ子さんのブログは、毎日更新されている。
貯嬉槽に沈めてありぬ薔薇の花 (2月13日)
■
「貯嬉槽」とは『徒花図鑑』に出てくる言葉。「あだばなずかん」と読む。
2011年7月刊(芸術新聞社)。
著者は、齋藤芽生。1973年生。東京芸術大学油画科を卒業し博士課程を経て現在は東京芸大非常勤講師。
ジャクソン・ポロックの「改革」が熱い抽象であるとしたら、齋藤芽生の「改革」はフェティッシュでグロテスクで様式のある具象。
ここに「時代」を見るとしたら、時評をもう一本書くことができそうだが、この欄にそぐわないので、これもやめておこう。