超戦後俳句史を読む 本編 ― 『新撰』世代の時代①   筑紫磐井

俳句のパラダイム・詩のパラダイム

前々回の詩人岡野絵里子の「書評・俳句アンソロジー『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』を読む」(「『俳コレ』鑑賞①」4月27日付)は、三詩型交流に対するヒント、より正確に言えば、交流することがいかに困難であるかの証拠にあふれているようで興味深かった。岡野は言う。

「びっくりするようなページがある。俳句の世界では、こういう文字の配列の仕方があるのですね。活字と字間の大きさが同じ。意味にかかわらず、全部均等の字間。ページの大きさに合わせて、上下左右きっちり四角い。初めてなので、読みづらいです。正直に申しますと、生きものであるはずの言葉が、ガラス箱に並べられた蟻の標本に見える。読もうと努力しても、どうしても、どうしても目が嫌がる。」

<筑紫注:岡野が「字間の大きさが同じ」と言っているのは1句の中で同じということであり、隣の句(詩人の例で言えば隣の行と言うべきか)と同じと言うことをいっているのではない。むしろ隣の句とは字間の絶対的な大きさは違っている。従って俳書の印刷業者の業界用語である「天地揃え」か「字間不統一」かと言うべきであろう。以下そのように言い直してみる。>

俳句では当然と思っている天地揃えを「目が嫌がる」という理由で岡野は鑑賞を拒否するのである。これは衝撃であった。『俳コレ』は『新撰21』『超新撰21』の出版元邑書林の方針で、作者の希望に基づき天地揃えと字間統一(つまり句末がでこぼこ)を選択させている(『新撰21』は天地揃えが21人中6人、『超新撰21』は21人中8人、『俳コレ』は22人中10人。ただし『俳コレ』の栞で自選句を提出させたものは全員が字間統一、つまり天地をそろえていなかった)。邑書林の方針は俳句の世界ではわりあい珍しい例で、他の出版社では強制的に1つに方針を決めている。最新の商業雑誌を見てみると「俳句」は全頁強制的な天地揃え、「俳壇」「俳句四季」「俳句界」では基本的に天地揃えで一部句会報や読者応募欄、つまり時間的にそろえる余裕のない記事には字間統一を使っているが、それはごく僅かだ。結社誌では字間統一は「海程」「狩」、また一部では「万緑」雑詠欄が見られるぐらいで、圧倒的に天地揃えが多い。それではと、同じ角川系の「短歌」を見るとこれはすべて字間統一している。これを句集、歌集で眺めてみても同様であろう。

これは創作の場だけでなく、例えば岩波文庫で俳句の『芭蕉七部集』『蕪村俳句集』『一茶俳句集』を読むとすべて天地揃えとなっているが、和歌の『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』は字間統一である。アカデミックな世界ですらそうなのだ。ちなみにそちらの方は不案内であるが、古書でも私が見た限り『芭蕉七部集』の江戸時代の版本は天地揃え、『万葉集』の中世の写本は字間統一で、端(はな)からそうなっているようなのである。

句集というのはこういうもの、歌集というものはこういうものという枠組みが内容以前にできあがっているようなのだ。だから恥ずかしい話で言えば、私の第2句集『婆伽梵』単行本は字間統一(弘栄堂書店の大井恒行に勧められた気がする)、これを再収録した『筑紫磐井集』は天地揃えとなっている。そんな意識さえないのが多くの俳人かも知れない。

ともかく、「目が嫌がる」と言うことで、詩人である読者は内容に立ち入ることなく、その著者の名前で選ぶことなく拒絶するのである。これは俳人の意識を越えている拒絶理由であろう。かといってそれを不当だということは出来ない。季語が入っていない、前衛俳人であるというだけで読むことを拒否する俳人も多いからだ。

俳人にしてみればこれが「伝統」であるということになろう。伝統は何も有季定型に限るわけではない。伝統俳句の現代の発唱者である草間時彦が上げた伝統の要素は、漢字の正字、歴史的仮名遣い、文語、定型、切字、季語などを総合したものであり、その中には草間は言い漏らしたが、天地揃えも入っているべきであろう。だから岡野の指摘は天地揃えに対する違和感だけではない、伝統に対する違和感につながるはずだ。

じっさい、岡野は誠意を持って一つ一つの違和感を照合する。

「巻頭の野口る理氏の御作。この並べ方だと私にも拝読できそうです。ほっとするが、百行もある。つい、スタンザなしの長い詩だなあと思ってしまう。」

「「ふ」とは旧仮名遣い。俳句らしい趣。新しいものばかりを追いかけている詩人も、少し立ち止まって、伝統的な美を見直すのもよいのでは、と思わされる。」

「焼き鳥のテーブルをはさんで、人がどんな人生を味わっているか知りたい。襟巻をした女性たちが、友人に意地悪をする時の顔が見たい。詩語には喚起力がある。応えて詩行を構築することで作品は成り立つのに、と、詩作の癖が抜けない。」

「御作を拝読してきて、感服しつつ、なおかつよくわからないうちに、ページスペースの都合で結びの句に到った。この句が百句目である。もしかすると、それぞれの句は、隣り合っているだけで、関連はないのかもしれない。でも全体で一つの物語のはずだ・・・・ 書道家の作品展に行って、腹を立てたことがあります。なんと、彼らはたった一文字を書いて、値段をつけている。どんな高名な詩人だって、一文字じゃ原稿料は取れない。書道家はどれだけラクしてるんだ、と怒ったわけです。友人たちは笑った その時と同じわがままと勘違いを言っているんでしょうね。」

すべてが違和感を持たれているのではなく、旧仮名遣いにはちょっとした魅力を感じているらしいことはわかるがそれは岡野の個人的嗜好であろう、全体に、違和感を感じているのは間違いないことだ。1行で立つ、ということ自身違和感の中に含まれている(もちろん俳句の中にも連作俳句という1行で立たない俳句もあったが)。

 しかし、ただこれだけの結論で終っては詩人の俳句に対する違和感の表明に止まってしまい3詩型の交流につながらない。私なりにこれを普遍化すると、普遍的なパラダイム論が展開できそうだ。それは、誰しもある知的活動をするとき持つ社会的意識的な枠組みのことである。科学史家トーマス・クーンは、科学論の中で、通常科学には、科学者共同体の中で共有される問題設定、概念、理論、装置、方法などの選択(パラダイム)が存在し、そのパラダイムの中でパズル解きとしての科学の活動が行われるとする。だから科学の危機(順調なはずの科学の歴史にも実は危機の時代があったことが知られている)に対応するためには、科学革命が行われなければならない。アリストテレスに対してはニュートンが、ニュートンに対してはアインシュタインが科学革命を起こした、というのである。クーンの科学論としての妥当性はここでは論じられないが、俳人共同体の中で共有される物の見方、問題設定などがあればそれを俳句パラダイムと名付けることも可能であり、その些細な一つの例として様式としての天地揃えも、連続する行の不連続・断絶も見られるだろう。

問題をひっくり返して考えてみよう。詩人が考えることも実は真理ではなく、詩人共同体の中で共有される物の見方、問題設定などがありこれを現代詩パラダイムと考えることが出来るのではないか。詩人もこのパラダイムの下で、詩を眺め、また俳句を批判するのである。だから天地揃いの俳句を目が受け入れない。

 もちろんパラダイムの下の通常科学は精緻で体系的な科学の進歩をもたらした。俳句パラダイムも現代詩パラダイムも精緻な表現を発展させ、現代俳句史、現代詩史において豊饒な作品を築き上げたことだろう。しかし、俳句革命、現代詩革命を起こさない限り、前代と同じパラダイムの元で俳句や詩を作り続けていることになりかねないのである。そして革命を控えていない世紀末の現代こそ、科学の危機ならぬ俳句の危機、詩の危機が押し寄せている。

俳人(詩人以外のすべての読者)の多くが何故、詩に関心を持てないかもこんなところに起因しているように思える。俳人にとってなじみがあるのは、(俳句形式でなければ)散文の方である。散文に対して異質な特徴を持つ詩形式はその違和感から拒絶反応が生まれてしまうのではないか。岡野に倣って言えば、我々俳人は、詩を眺めるとき、散文と違う改行や空白に当惑し、そそくさと詩の前から逃げ出してしまう。そして例えそれを乗り越えたとしても、詩の持つ一種独特の集約された思念、思想性に散文の軽やかな無意味さと違うものを感じて、それ故に詩を読むことを拒絶しているのではないか。もちろん読み慣れれば、ないし自分の好きな詩人が決まれば事情は変わるであろう。しかし、それは岡野が天地揃えの俳句を読んでくれるのと同じ、付加的条件となるのである。詩に関心を持つ一部の俳人を除外して、ごく普通の俳人に何故詩を読まないかと聞いたとき返ってくる答えの奥にはそのような構造があるように思われる。俳句は詩の一種であるから、俳人は詩を読むべきだという理屈はないのである。

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