鉢巻のまゝ天ぷらや年をとり 眞樹 (1947年 『「ながや」川柳復興大會』 長屋連編)
江戸つ子といふ鉢巻で海老を揚げ 壽也子
終戦から二年、人形町・末広にて開かれた「ながや」川柳復興大會には百四十余名の参加があったという。開催を知らせるチラシや広告を見て各地から投句が殺到したと資料にあって、壊滅的だった東京でこの大会の開催に心躍らせた当時の川柳人を思うと、まさに復興への明るい光を感じていたのではないだろうか。前年の『川柳京洛一百題』同様、戦争の影が句に見えないのも、祭りを楽しもうという雰囲気が勝っていたからだと思われる。
川柳の大会といえば題詠が主であり、ここでは「温泉」「故郷」など十九の題があったようだが、単純計算で少なくとも三千句(おそらくは倍以上)が寄せられたことになる。掲出句は「天ぷら」の句だと思うが、「鉢巻」という語が両句にかぶっているように、共通のイメージにある「天ぷら」屋像が見えてくる。今の私の選句眼でいえば、切り口が似ているし「天ぷら」という題に対しても動く句であると思われるが、当時の句会とはこういうものであったのだろうという感もある。
初蝶や昔はおどろなりし宮 高野素十 (1947年 『初鴉』)
まつすぐの道に出でけり秋の暮
私が思う「俳句らしい俳句」が並ぶ。つまり作者があるときに見た(見つけた)一瞬の景を、スナップ写真を撮るような感覚で言葉に切り取る。そこへわずかに作者の心の動きが映りこんでいるというのが、私の俳句のイメージである。掲出句はこのイメージにぴったりと嵌まる句だと思う。「昔はおどろなりし宮」の前で見つけた「初蝶」に子供のころの記憶と現在とがオーバーラップした瞬間。奥まった路地を抜けたところで「秋の暮」の空気を感じ取った「まっすぐな道」。何気ない光景の何気ない一瞬を無理のない言葉で書き取る作業は、実は案外難しいものだと思う。ただこの表現は時代を重ねることで、新たに生み出すには難しい手法であることも理解できる。川柳も全く同じジレンマを抱えているのだが、時代に合った更新をどのように行っていくのかは永遠のテーマであるのだろう。
額冷やすタオルの端に汝がなみだふきやりてはたわが涙拭く 吉野秀雄(1947年 『寒蟬集』)
生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期の息に耐へにき
短歌とは良くも悪くも感情に正直だと思う。四十二歳で他界した作者の妻を詠んだ歌が並んでいるのだが、これらを十七音字で書こうとすると必ずどこかを削ることになる。そのために作者はどこかで自分の感情に蓋をして、書かない部分を選ばなければならない。このとき、先に揚げた作句・作歌における「時代に合った更新」が影響を受けるのだが、短歌での正直さはこれを比較的容易にさせる。たとえば掲出歌と同じような状況を今の歌人が書くとすると、今様の独自の書き方がいくつも可能であると思うが、削るという作業をより必要とする俳句や川柳では、句の中に核となる部分を残す傾向が強いために独自性を保つ言葉の選択肢が極端に少なくなってしまう。このために今後の柳俳はより「虚」への指向が加速すると予想しているが、川柳においては正直で居続けるため「伝統」という旗印の下に「過去の川柳」を埋め立てた上に同じような川柳を塗り重ねている節がある。もちろん正直な作句が本筋だとは思うが、それを真に更新し続けるためには何が必要かを知り、そのための努力を忘れてはいけないはずである。